26 装甲とベスト4進出(下)
柏木奏は銀灰色のUVカットパーカーの布地越しに、無意識に椅子の肘掛けを指先でカリカリと引っ掻いた。
ハッタリだ。
これ絶対あいつのハッタリだろ。
何千人もの観客が見守る準決勝という大舞台で、1ゲームを丸ごとドブに捨てるような真似をするはずがない。千野柊斗がいくら傲慢の塊だとしても、自分の公式記録を泥に塗るような冗談は絶対にやらないはずだ。
奏は鼻先までずり落ちていたサングラスをクイッと押し上げ、冷ややかな視線をコートへと向けた。相手が次の1球を打てば、あいつの体に染みついたマッスルメモリーが、本能的にラケットを振らせるに違いない。
ネットの向こうの大原 賀人はボールを数回バウンドさせ、深く息を吸い込んだ。最初の1球は奇妙な形で手に入ったものの、警戒は一切緩めていない。
パシィィン!
セカンドサーブだ。今度は、大原 賀人はトップスピンの摩擦をさらに強めてきた。ボールは重苦しい風切り音を引き連れ、千野柊斗のバックハンド側へと突き刺さる。
千野柊斗の肩が動いた。
左足を外側へ半歩踏み出し、重心をぐっと落とす。これは綺麗な片手バックハンドのストロークの構えだ。
(ほら見ろ、思った通りだ)奏はサングラスの奥で呆れたように目をそらした。
だが、奏が安堵して背もたれに体を預けようとした、まさにその瞬間。柊斗の踏み出した左脚がピタリと停止した。ラケットを握る右手は振り抜かれるどころか、そのまま体の脇へとだらりと垂れ下がったのだ。
それどころか、彼は首を巡らせ、広いコートを挟んだ向こう側から、ベースラインを越えて、柏木奏のフェイスカバーへとその視線を真っ直ぐに向けた。
パンッ。
ボールが地面に激突し、鋭く跳ね上がる。千野柊斗の肩をすれすれに掠めてそのままコートの外へと飛び去り、背後のフェンスを激しく揺らした。
会場は、再び水を打ったような静寂に包まれる。
「サーティー・ラブ!」審判のマイクを通した声には、隠しきれない困惑が混じっていた。
大原 賀人のラケットを握る手の甲に、青筋が浮かび上がる。こちらをハエ一匹見るかのように一瞥すらしない少年の態度に、彼はこれまでにない屈辱を味わっていた。
「人を舐めるのも大概にしろッ……!」
大原 賀人は怒号を上げ、ボールを高く上空へトスアップした。全身を極限までしならせ、満弓の如き体勢から、渾身の力で3球目のサーブを叩き込む。
今回は、千野柊斗は構える素振りすら見せなかった。ベースラインの中央に直立し、左手はポケットに突っ込んだまま、右手でラケットをだらりと提げ、両脚は地面に縫い付けられたかのように微動だにしない。黄色い残像と化したボールが、彼の足元から50センチと離れていない場所に激突し、そのまま虚しく跳ね飛んでいった。
「フォーティー・ラブ!」
「ゲーム、大原 賀人! 1-0(ワン・ゼロ)!」
ファーストゲーム終了のコールが響くと同時に、場内のスピーカーから実況アナウンサーの絶叫が炸裂した。そこには明らかな動揺が混じっている。
「嘘でしょう?! 一体何が起きているんだ?! 信じられない幕開けです! 予選で圧倒的な破壊力を見せつけ、コートを支配してきたあの『冷酷な超新星』千野柊斗選手が、大原 賀人選手のファーストサービスゲームに対し、なんと4球連続、1ゲームを丸ごと無抵抗のまま落としました!」
興奮のあまり、実況の声が裏返る。
「身体に何か不測の異変でも起きたのでしょうか?! それとも……まさか、大原 賀人選手の放つヘビートップスピンが、肉眼では捉えられないほどの『絶対的な威圧感』へと進化し、千野選手の動きを完全に封じ込めたというのか?! 放送席もこの展開には完全に言葉を失っています! まさに今大会最大のミステリーだ!」
観客席は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、ざわめきが津波のように押し寄せる。前列の応援団の少女たちも困惑したように顔を見合わせ、あれほど激しく振られていた応援スティックの動きが完全に止まった。
そしてコートサイドのVIP席に座る柏木奏は、弾かれたように背筋を伸ばし、完全に背もたれから体を離していた。
彼は口をわずかに開け、サングラスの真っ黒なレンズの奥で、こちらに向かって真っ直ぐに歩いてくる漆黒のシルエットを凝視した。
千野柊斗は反対側にある選手用ベンチへは向かわず、一直線に奏の座る席の前までやって来た。彼は足を止めると、首にかけていた白いタオルを無造作に引っ掴み、額ににじんでもいない汗を拭うポーズを取った。
二人の間を、1枚のフェンスが隔てている。
「0-1だ」柊斗は俯き、白いキャップのツバが天井の照明を遮って、その顔に濃い影を落とした。
彼は完全武装した奏を見下ろし、その口元に底意地の悪い不敵な笑みを浮かべた。ハスキーな声が、ノイズキャンセリングヘッドホンの僅かな隙間から奏の鼓膜へと滑り込む。
「このままアンタがフリーズし続けるなら、あと20分もしないうちに荷物をまとめてお家に帰ることになるぞ」柊斗はフェンスの上に無造作にタオルを放り投げた。「その時は、『天才少年、準決勝でストレート負けの完敗』っていうネットニュースの見出し、全部アンタのせいにしとくからな」
「さぁて、どうしてくれようか」
柊斗は突然、笑い声を漏らした。それはいつもの冷淡な嘲笑でも、企みが成功した時の含み笑いでもない。彼の息を呑むほど整った五官が、その笑みによってパッと華やぐように輝きを放ち、白いキャップの陰で、薄い色の瞳が信じられないほど眩しく、それこそ純粋無垢な弧を描いて細められたのだ。
「かなで」
空気を焼き焦がさんばかりの喧騒に包まれた体育館の中で、その短い名前が少年の唇から滑り落ち、奇妙なほどに濃密な親愛の響きを伴って響いた。
千野柊斗がフルネームでもなく、あのいつもの小馬鹿にした口調でもなく、彼を名前だけで呼んだのは、これが初めてだった。
UVカットパーカーの布地に包まれた奏の背筋に、一瞬にして冷や汗が伝った。
こいつ狂った。絶対にテニスのしすぎで脳みそがイカれちまったんだ!
奏は心の中で激しく頭を抱え、絶望の悲鳴を上げた。




