表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/51

20 勝者のマーキングと、冷房という名の救済(上)

小林はボールの落下点に振り返ることすらできなかった。彼はコート上に力なく膝から崩れ落ち、ラケットは傍らに転がっている。まるで魂を丸ごと抜き取られたかのように、完全に心が折れていた。


千野柊斗はベースラインに立ち、わずかに胸を上下させているだけだった。他の勝者のようにガッツポーズをして歓喜することもなければ、地面に崩れ落ちた敗者を一瞥することすらしない。


彼は手元のラケットを無造作にクルリと回し、肩に担ぐと、目深にキャップのツバを引き下げた。


「……弱すぎる」


いつもの、その冷酷な評価だけを吐き捨て、柊斗は踵を返して自分のベンチへと向かった。


「ジーッ」とジッパーを引き、ラケットを赤いテニスバッグに押し込むと、片手でヒョイと肩に担ぐ。一連の動作は流れるようにスムーズで、他者を一切寄せ付けない冷ややかなオーラを放っていた。本来なら群がってくるはずの記者たちも、彼が発する圧倒的な威圧感プレッシャーに気圧され、誰一人として近づくことができなかった。


だが、柊斗はロッカールームには向かわず、テニスバッグを提げたまま、まっすぐにスタンドの最前列へと歩みを進めた。


奏は椅子にぐったりと寄りかかり、この熱波ですでに全身の七割が蒸し焼きにされた気分だった。目の前に黒い長身のシルエットが立ち塞がり、刺すような日差しを遮ってくれたのを見て、奏はようやく安堵の息を吐き、デカいサングラスを外した。


「お仕事終了ですか、天才様?」奏の声は虫の息で、今にも死にそうなナメクジのようだった。「早く帰らないと、君専属の『人間チート解析機』を永遠に失うことになるぞ……」


柊斗は高みから彼を見下ろした。そして、ゆっくりとしゃがみ込み、片膝を立てて、強引に奏の顔と視線の高さを合わせた。


距離が縮まるにつれ、ミントの冷涼な香りと、太陽に焼かれた直後の驚異的な熱気が混ざり合い、無視できないほどのプレッシャーを伴って奏の顔に吹き付けた。


柊斗が無造作に白いキャップを脱ぐと、汗で完全に濡れたアッシュブロンドの髪が、乱れたまま額に張り付いていた。激しい運動のせいで、普段は透き通るように白い少年の肌にはほんのりと赤みが差し、それが頬から引き締まった首筋へと色っぽく広がっている。


あまりにも近すぎる。奏は、彼の長い睫毛に絡め取られた細かい水滴が、少し荒い呼吸に合わせて微かに震えているのまではっきりと見て取れた。その薄い色の瞳は強い日差しの下で鋭く細められ、そこにはコート上で発散しきれなかった、少年特有の鋭く獰猛な刃のような覇気がまだ色濃く残っている。


容赦なく降り注ぐ頭上の太陽光が、柊斗のひときわ高い鼻梁の横に濃く深い陰影を落としていた。息を弾ませているせいで、普段は嘲笑の弧を描いている薄い唇が今はわずかに開き、熱を帯びた吐息を絶え間なく繰り返している。その唇の色はいつもよりずっと赤みを増しており、やけに目を引く艶やかな湿り気を帯びていた。


キラリと光る一滴の汗が、完璧で無駄のないフェイスラインを伝って滑り落ちる。シャープな顎の先で一瞬だけ躊躇うように揺れた後、呼吸を整えるたびに上下する喉仏を掠め、黒のスポーツウェアの少しはだけた胸元の奥深くへと、そのまま吸い込まれた。


普段のあの気怠げな偽装が剥がれ落ちた、挑発的なまでに直截的な「美の暴力」。それがわずか十数センチの距離で何倍にも増幅され、若いアスリート特有の、生命力に溢れた攻撃的なフェロモンとなって、頭から容赦なく奏に降り注いだ。


元々処理速度の遅い奏の脳内CPUは、ここで完全に1秒間フリーズした。(……なっ、なんだこの致死量の顔面ダメージは!)


血の気が少ないはずの奏の顔は、今は熱気にあてられたように真っ赤に茹で上がり、額の黒髪が濡れて肌に張り付き、ひどく無防備で哀れな姿を晒していた。


奏のそのフリーズした間抜けな顔を見て、柊斗の瞳の奥に、誰にも気づかれないほどの愉悦がサッと走った。


彼はつい先ほどまでラケットを握り続けていた、薄いタコのある手を持ち上げると、指先で摘んでいたあの白いキャップをスッと前に突き出し、有無を言わさず奏の頭にポンッと被せたのだ。


そのままツバをグッと下に押し下げる。一瞬にしてスタンドの眩しい直射日光が遮断されると同時に、まだ現実に戻りきれていない奏の顔の大部分が隠された。


少年の被っていたキャップには、試合直後の熱がまだ驚くほど残っていた。内側の生地に染み込んだミントの冷涼な香りと、微かな汗の匂いが、ツバの落とす影に沿って、奏という存在を丸ごと完全に「マーキング」した。


「行くぞ」


柊斗は立ち上がると、長い指で悪戯っぽくキャップの頂点をポンと叩き、そのモフモフした頭をさらに深く押し下げた。その低くハスキーな声には、運動後特有の気怠さと、奏にしか聞き取れないような上機嫌な響きが混じっていた。


奏は首根っこを掴まれた猫のように、容赦なく椅子から引きずり起こされた。


「おい! 俺もう歩く体力残ってないんだけど!」奏は抗議する。


「だろうな」柊斗は鼻で笑った。だがその腕の力は決して奏を痛めつけるものではなく、むしろ親指の腹で、奏の熱を持ったうなじを罰を与えるようにぐっと圧をかけた。


指の下で、その身体が敏感に微かに震えるのを感じ取り、柊斗の口角に得体の知れない得意げな笑みが閃く。


会場を埋め尽くす数百人の観客の、驚愕と困惑、そして羨望の眼差しを一身に浴びながら。


都内ジュニアテニス界で最も冷酷無比な天才少年は、片手でテニスバッグを提げ、もう片方の腕で『謎の男』の肩を抱き寄せるようにして、灼熱の太陽に焼かれるテニスセンターを堂々と後にしたのだった。


『ピッ——解錠しました』


ドアが開いた瞬間、23度に設定された冷房の風が、命を繋ぐエリクサーのように吹き付け、屋外の38度という凶暴な熱波を一瞬にしてシャットアウトした。


奏は本能に残された最後の魔力を振り絞り、ふらふらと玄関に転がり込んだ。靴を脱ぐことすら忘れ、全身の骨格を抜き取られた一本のうどんのように「ベチャッ」と音を立てて、極めて不格好なうつ伏せの姿勢でリビングのカシミヤラグに激突した。


「生き返る……」ラグに顔を埋めたまま、くぐもった声が漏れる。それは死地から生還した生存者の弱々しい声だった。「俺は宣言する……エアコンを発明した偉人は、人類進化史の最高殿堂に祀られるべきだ……」


バタン、と背後で重いドアが閉まる音がした。


後から入ってきた柊斗は、重いテニスバッグをシューズボックスの横に無造作に立てかけた。彼が着ている黒いスポーツウェアの生地はとうの昔に汗で限界まで濡れており、肌にぴったりと吸い付いて、引き締まった筋肉のラインを露わにしている。


彼はラグの縁まで歩み寄ると、足元で完全に抵抗を放棄した「軟体動物」を見下ろした。


「日よけ屋根のあるスタンドに、たかだか1時間座ってただけで、よくもまあそこまでスクラップ寸前になれるな」柊斗はつま先で、奏のふくらはぎを軽く小突いた。「アンタの初期スペック、完全に不良品だろ。……弱すぎる」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ