18 絶対零度の観客と、弾丸サーブの噛ませ犬(上)
3日後、選抜戦の会場。
「東京都ジュニアテニス選手権本戦」は、全日本ジュニアへと続く第一段階の予選である。彼らテニス少年たちにとって、ここは最高の舞台へと続く最初の登竜門だ。この激戦区を勝ち抜き、見事上位に食い込んでこそ、第二段階である「関東大会」への切符を手にし、その先に待つ全国大会の最終シートを争うことができる。
8月の太陽は、テニスセンターの上空からドロドロに溶けた真っ赤な鉄をひっくり返したかのように、容赦なくコートを焼き焦がしていた。スタンドは人々の熱気と歓声に包まれ、巨大な日よけの屋根すら、その息苦しいほどの焦燥感と熱波を遮ることはできない。
柏木奏は、客席の最前列……それも審判台の真正面という、この上ない特等席で全身を完全に硬直させて座っていた。
今の彼の出立ちは、異常なほどに人目を引いていた。鼻梁にはデカデカとした黒いサングラス、頭にはミントの香りが漂う冷感タオルを乗せ、水滴がびっしりとついたキンキンに冷えたミネラルウォーターのペットボトルを死に物狂いで抱きしめている。その姿はまるで、霊安室から無理やり引きずり出されて日光浴をさせられている死体のようだった。
「俺のHPが、毎秒50のスピードでスリップダメージを受けてる……」奏は背もたれにぐったりと寄りかかりながら虚ろな声で呟いた。周囲の騒音までもが、彼の脳神経を狂ったように攻撃してくる。
奏は、なぜ自分がこんな場所にいるのか全く理解できなかった。そもそも彼は、硬式テニスのルールすらよく分かっていない。つい先ほど、スマホでルールを検索したばかりなのだ。
テニスの1ゲームの得点カウントは、1、2、3という普通の数字ではなく、15、30、40と進む。先に4ポイント先取した者がそのゲームを獲得する。もし互いに40-40の同点に持ち込まれれば、そこから2ポイント連取しなければ勝てない。そして通常、1セットの試合では先に6ゲームを先取し、かつ相手と2ゲーム以上の差をつけなければならない。
……という長ったらしいルールの説明を読んだ時点で、奏はそっとブラウザを閉じた(考えるのをやめた)。
もしあの暴君がコートに入る直前、極寒の声で『試合が終わる前に少しでも目を閉じたら、今夜、お前のSwitchの残骸が親水公園の池に浮かぶことになるぞ』と脅してこなければ、奏は間違いなく今すぐ客席で絶望の詠唱を漏らし、永遠の眠りについていただろう。
ズドォォン——!
コートに鈍い打球音が響き渡り、奏の呪文を断ち切った。
選抜戦のベスト8激突が、正式に幕を開けた。
フェンス越しに見える千野柊斗は、コートのベースライン後方に立っていた。今日の彼は全身漆黒のゲームシャツとパンツに身を包んでおり、灼熱の太陽が照りつける眩しいコートの中で、光という光をすべて飲み込んでしまう鋭利な影のようだった。
しかしその重厚な「黒」は、空気に晒された彼のふくらはぎの白さを、暴力的なまでに際立たせていた。一切の無駄な脂肪がない、骨格のラインが極めて美しいその両脚は、強烈な日差しの下で滑らかな微光を放っている。彼が背筋を伸ばして立つと、引き締まったアキレス腱が、鋭くもどこか少年らしい線の細さを残したラインを描き出す。少年特有の滑らかな肌は汗で微かにきらめき、刺すような太陽の光を反射していた。
トレードマークの白いキャップは目深に被られており、その瞳を見ることはできない。ただ、極度に張り詰めたシャープな顎のラインだけが見て取れた。
ネットを挟んだ向こう側に立つのは、数日前の夜に録画映像で4時間もかけて徹底的に解剖したあのサウスポーの選手——小林 塁だった。
小林は、その狂暴な「弾丸サーブ」で都内でも少し名の知られたプレイヤーだ。
テニスの技術において、「弾丸サーブ」とはつまりフラットサーブ(Flat Serve)のことである。このサーブのモーションにはトップスピンやスライスなどの回転がほぼ一切かからず、プレイヤーはインパクトの瞬間にラケット面を完全に垂直にし、体幹のパワーのすべてを純粋な直線の運動エネルギーへと変換するのだ。
着弾点をコントロールするための安全な山なりの軌道を放棄する代わりに、極限まで高められた恐ろしい球速を手に入れる。ネットを越えたボールは地を這うように飛び、まるで銃口から放たれた弾丸の如く、レシーバーに残された反応時間を無に等しいレベルまで削り取る。ゆえに、直接ポイントを奪う「サービスエース(Ace)」になりやすい。
だが、この技は決して単純なものではない。この究極のフラットサーブをマスターするには、極めて高い打点、ミリ単位で正確なトスの軸、そして強靭な体幹の爆発力が求められる。そこにはわずかなミスも許されない。ラケット面がほんの少しでも上を向けば即アウト、下を向けばネットに突き刺さる。「ハイリスク・ハイリターン」を極限まで突き詰めた技術なのだ。
さらに厄介なことに、小林はサウスポーである。テニスというスポーツにおいて、左利きのプレイヤーは生まれながらにして「常識外れ」という戦略的アドバンテージを持っている。
なぜなら、圧倒的多数のプレイヤーの筋肉の記憶と動体視力は、右利きの相手を想定してプログラミングされているからだ。しかし、サウスポーの真逆の身体の使い方は、トスを上げる際の肩の捻りや、スイング時に自然と生じるレフティ特有の変化によって、レシーバーの予測レーダーを完全に狂わせてしまう。
特にサウスポーの弾丸サーブが右側のワイド(外角)に打ち込まれた時、その直感に反するミラー(鏡合わせ)の軌道は鋭いナイフのように、右利きプレイヤーの最も脆弱なバックハンドの守りをえげつない角度で切り裂くのだ。
小林はまさに、この極めて習得難易度が高く暴力的なサーブ技術に、サウスポー特有の視覚的トリックを乗せた最強の武器を駆使して、数々の試合を制してきたのである。
今この瞬間も、彼はベースラインに立ち、ボールをバウンドさせながら、敵意と挑発に満ちた目で千野柊斗を睨みつけていた。
「千野柊斗、最近随分と調子に乗ってるらしいな」小林はボールをキャッチし、鼻で笑った。「今日は俺が、絶対的な『力』ってやつを教えてやるよ」
コート上は静まり返っており、そのセリフはスタンドにまではっきりと届いた。
奏は冷感タオルの下で盛大に白目を剥いた。(こいつのゲーム内でのポジション、間違いなく最初のチュートリアルすら生き残れないタイプの『雑魚』だな。無駄口が多すぎる)
一方の柊斗は、まぶた一つピクリとも動かさなかった。彼は片手でラケットを提げ、フレームでシューズの底を軽く2回叩き、存在しない埃を振り落とした。
「……うるせぇな」柊斗は冷ややかに短く吐き捨てると、左手をポケットに突っ込み、右手でラケットの先を相手コートに向けた。その態度は、挑発してきた相手以上に傲慢だった。「さっさと打て。こっちは早く帰ってクーラーに当たりたいんだよ」
会場がどよめいた。小林の顔は、一瞬にして怒りで真っ黒になった。




