16 動体視力とボスの予備動作(下)
奏は200回のデスを乗り越えた末に、そのボスの根底にあるコードロジックを把握した。ハルバードの処刑者が広範囲の薙ぎ払いを放つ直前、左肩の3Dモデルが強制的に「3フレーム」だけ下に沈み込むのだ。対して、直線の突き攻撃を放つ際は、肩から首にかけてのポリゴンラインはピンと張ったままになる。
「へぇ……」奏は間延びした声で、まるでゲームの序盤の雑魚モブでも分析するような気怠い口調で口を開いた。「つまり君は、あいつがスキルをぶっ放す前の『予備動作』を探してるってわけか」
柊斗は眉をひそめた。何ゲーム用語で喋ってやがる、と言わんばかりだ。
「あのサウスポー」奏は柊斗の言葉を待たず、青白い指を一本持ち上げ、のろのろと画面を指差した。「あいつがボールをワイドに……君たちの言葉で言う『横回転で外に逃げる軌道』に打とうとする時、ジャンプする0.3秒前に、左肩の筋肉群が不自然にカクッと一瞬だけ下に沈み込んでるだろ」
リモコンを持っていた柊斗の動作が、硬直した。リビングには、テレビから流れるボールの鈍いバウンド音だけが響いている。
「これ、死にゲーのボスが全体攻撃を撃つ前に、肩のモデリングが必ず3フレームだけ沈み込むのと同じシステムなんだよね」奏は抱き枕に顔を埋める向きを変え、相変わらずくぐもった声で続けた。「予備動作が丸見えすぎる。次にレシーブする時は、あいつの手首なんか見ないで、左肩の骨の動きだけをガン見すればいい」
「あんな見え透いた入力読みの動作なんて、2回も見れば脳内で自動的に回避ルートが構築されるだろ」
のろのろとした、強烈な睡魔を帯びた声が、テレビの騒々しい打球音をすり抜け、柊斗の鼓膜にまっすぐ届いた。
柊斗は一瞬呆然とし、ゆっくりと顔を向けて、ソファで完全にスライム化している奏を見た。
奏は抱き枕に顎を乗せ、今にも寝落ちしそうになっている。
「……アンタ、今なんつった?」柊斗の瞳の色が瞬時に暗く沈み、その声には危険な探求心が混じっていた。
「2回も言ったのになんで理解できないんだよ。最近の若いのはこれだから」奏はあくびをし、目尻に滲んだ生理的な涙を拭いながら、面倒くさそうに繰り返した。
「だから、ワイドに打つ前に左肩が下がる、それがヤツの攻撃の予備動作だって言ってるの。君はあいつの肩の骨の座標移動だけをロックオンして、0.5秒早く外側にステップを踏めばいいだけだ。この固定フレームの動きをパターン化しておけば、コートを走り回るスタミナの無駄遣いも省けるぞ」
超高難易度のアクションゲームにおいて、47種類もの攻撃判定を持つボスを相手にノーダメでソロ討伐できるガチゲーマー。彼の動体視力と「モーションの予備動作」を捕捉する能力は、とうの昔に人間の限界を超えた変態的な領域まで鍛え上げられていたのだ。
リビングに、短い死のような静寂が訪れた。
柊斗はたっぷり5秒間、奏の顔を穴の開くほど見つめた。そして、無言のまま画面に向き直り、リモコンのボタンを押した。
「0.25倍速、スロー再生」
映像が極めてゆっくりと動き出す。トス、膝の沈み込み、そしてジャンプ——。
ラケットがボールにインパクトする直前。画面のサウスポー選手の左肩が、確かに、ほんの数フレームだけ「カクッ」とわずかに下へ沈み込んだのだ。
直後、ボールは弾丸のように右側のワイドのラインぎりぎりに突き刺さった。
この微細な力の入れ方の癖は、実際の高速ラリーの中では、プロの目をもってしても捕捉するのは至難の業だ。しかし今、朝の散歩だけでHPの半分を持っていかれるような引きこもりのオタクが、ソファに寝転がりながらいとも簡単に見破ってのけたのだ。
柊斗のリモコンを握る指に、グッと力がこもった。彼は突然、一時停止ボタンを強く押し込んだ。
「次のゲームだ」柊斗は振り返りもせず、録録画の後半部分までシークバーを飛ばし、通常倍速で再生した。「このボール、あいつはどこに打つ?」
画面の中で、サウスポーの選手が再びトスを上げる。
「センター。肩は動いてないけど、つま先の内股の角度がさっきより狭くなってる」奏は、相手がトスを上げた瞬間に解答を弾き出した。
柊斗:「……なんでだ」
奏:「力の支点が変わったからだよ。FPSゲームの重装スナイパーが直線貫通モードに切り替える時、反動を相殺するために両足のモデリングが自動的に内側へ2ピクセル収束するのと同じ理屈だ。こいつはセンターにフラットサーブを叩き込むために体の軸を固定する必要があって、自然とつま先で微調整してるんだよ。これは人体物理エンジンの慣性の仕様だから、絶対に隠しきれない」
ズドォォン!
映像の中のボールは、正確無比にセンターのTマークに突き刺さった。完全的中である。
柊斗は再び一時停止ボタンを押した。
彼はゆっくりと体を捻って振り返り、片膝を立てて、その膝に無造作に肘を乗せた。アッシュブロンドの前髪が片目をわずかに隠しているが、彼が奏に向けるその視線からは、初めてあの高圧的な見下しの色が完全に消え去っていた。
「……ふっ」
柊斗の口から、不意に声が漏れた。普段は常にへの字に結ばれているか、傲慢に歪められているだけのその口角が、今は完全に無防備に、柔らかく上方へと弧を描いていた。それはまるで、極上のマタタビをようやく手に入れた美しい猫のように、純粋で、そして隠しきれない歓喜に満ちた笑顔だった。
リビングの照明が、彼の少し濡れた金色の髪をキラキラと照らす。常に見下ろすことに慣れていたその薄い色の瞳には、今、SSR級のレアドロップを発見したかのような輝きが踊っている。元々息を呑むほどに整っている少年の顔立ちが、この一切の偽りがない純粋な笑顔によって、極めて暴力的かつ直截的な視覚的破壊力(顔面の暴力)を生み出していた。
半開きだった奏の瞼が、ピタリと止まった。
長年モニターと向き合ってきた彼のゲーマーとしての神経反射が、この瞬間、警報を鳴らした。
(なんだこの状況は。まるで攻略難易度ルナティックの冷徹なNPCが、好感度イベントのフラグを一切立てていないにも関わらず、突然プレイヤーの顔面に『限定版の高画質スマイルCG』を強制的に叩きつけてきたようなもんじゃないか)
奏は、この全く理不尽で論理破綻したダイレクトアタックによって、自分のHPバーが一瞬で半分削り取られるのを感じた。
彼は無言のまま首をスライドさせ、顔の半分を抱き枕の奥深くへと沈み込ませた。綿のクッションを盾にして、その存在感が強すぎる視線をどうにかやり過ごそうと試みる。
「どうやら、アンタのその目は、ポンコツのスクラップボディみたいには錆びついてないらしいな」
その逃げようとする頭蓋骨を見つめながら、柊斗の胸の奥から低い笑い声が響いた。口調は相変わらず天下を取ったように傲慢だったが。
「俺の家の冷房をタダで消費してるだけの、完全な穀潰しってわけじゃなさそうだ」




