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15 動体視力とボスの予備動作(上)

気温37度という殺人級の猛暑下で外出すること以上に恐ろしいことがあるとすれば、それは絶対に「体力お化けと一緒に早朝の、いわゆる『お散歩』に付き合わされること」だ。


奏の指紋認証がマンションのオートロックを解錠した瞬間、彼は自分が刑期を終えてシャバに出た受刑者なのではないかという錯覚すら覚えた。茹でたうどんのようにフニャフニャになった二本の脚を引きずり、玄関のベンチを器用に躱すと、完璧な「自由落下」の姿勢で、リビングの広々としたファブリックソファへと己の肉体を投げ出した。


「全身の骨という骨が……悲鳴を上げてる……」奏はクッションに顔を埋めたまま、土の中から掘り起こされたばかりのミイラのようにくぐもった声を出した。


ルルが優雅な足取りで近づいてきて、絶望のオーラを垂れ流しているこの人間の匂いをフンフンと嗅いだ。そして「くだらない」とでも言いたげに尻尾を振り、傍らのキャットタワーへと飛び乗った。


後から入ってきた千野柊斗はドアを閉め、二人のスポーツボトルをカウンターに無造作に放り投げた。


今にも昇天しそうな奏の惨状とは対照的に、同じく1時間も太陽の下を歩き回ったはずの柊斗は、額にうっすらと汗を滲ませているだけで、呼吸のリズムすら1ミリも乱れていない。


彼は目を伏せ、ソファの上でスライムと化している男を冷ややかに一瞥した。


「たかが2周歩いただけで、よくもまあそこまでポンコツのスクラップ状態になれるな」柊斗は容赦なく鼻で笑った。「アンタの体、錆びついてるだけじゃなく、粗悪な合金ででも出来てんのか」


奏にはもう口答えする気力すら残っていなかった。ただ青白い指を一本立て、空中で力なく振ることで、『当機は死亡しました。御用の方はご焼香を』という意思表示だけを行った。


柊斗はそれ以上相手にせず、まっすぐバスルームへと向かった。


10分後、バスルームのドアが開く音とともに、濡れたアッシュブロンドの髪をタオルで拭きながら柊斗が出てきた。黒のゆったりとしたTシャツに着替えており、まとっていたツンとする汗の匂いは、清涼感のあるミントのボディソープの香りに上書きされていた。


彼は自分の部屋には戻らず、リビングへ向かうとローテーブルの上のタブレットを手に取り、壁掛けの巨大な液晶テレビに手慣れた様子でキャストした。


ズドォォン!

キュッ、キュキュッ!


ボールをひっぱたく爆発音と、シューズがハードコートを擦る耳障りなスキール音が、静まり返っていたリビングに突如として炸裂した。ガラスが割れそうなほどの大音量だ。


「ビクッ」と突然の騒音に身を震わせた奏は、苦悶の表情でクッションを耳に押し当てながら、恨めしそうにテレビの方へ首を向けた。


画面には、高画質のテニスの試合の録画映像が流れていた。左利きの長身選手が高く飛び上がり、極めてエグい角度のワイドサーブを叩き込んでいる。


柊斗はラグの上であぐらをかき、手にリモコンを握っていた。背筋をピンと伸ばし、普段の気怠さや嘲笑を帯びた瞳は消え失せ、今は抜き身 of 刃のように鋭く画面を睨みつけている。


「巻き戻し。0.5倍速」


柊斗は低く呟き、リプレイボタンを押した。


映像が巻き戻り、再び再生される。

サーブ。着弾。ポイント。


柊斗の眉間にわずかなシワが寄り、リモコンを持つ指が苛立たしげにタップされた。彼はすでにこの映像を十数回は繰り返し見ている。画面に映るこのサウスポーの選手は、来週の『東京都ジュニアテニス選手権本戦』で当たる対戦相手だ。相手の「弾丸サーブ」は極めて球速が速いだけでなく、モーションが隠蔽されており、打球の直前までセンターに来るのかワイドに来るのかを判断するのが非常に困難だった。


「巻き戻し」


柊斗は再びボタンを押す。


テレビモニターの放つ微かな光が、奏の横顔を照らしていた。奏は悲鳴を上げる体をどうにか動かして体勢を変え、片手で頭を支えながら、ひっくり返された干物のような格好で、ラグの上に座る柊斗の背中を半目で眺めた。


「何してんの?」奏はあくびを噛み殺し、のろのろとした声を飛ばした。


「スカウティングだ」柊斗は振り返らず、画面に視線を固定したまま答えた。「来週の選抜戦の相手のな」


奏は片眉を跳ね上げ、少しからかうような口調になった。「世間から『テニスの天才』ってもてはやされてる君でも、テレビの前に座ってそんな地道な情報収集をする必要があるのかい? なに、あいつに勝てないの?」


リモコンを操作する柊斗の指がピタリと止まった。彼は顔を向け、氷点下の瞳でソファの上の奏を睨みつけた。まるで、常識が欠如した単細胞生物でも見るかのような目だった。


「テニスは脳筋が力任せにラケットを振り回すだけの低次元なスポーツじゃない」柊斗の声には隠しきれない軽蔑が滲んでいた。彼はリモコンで一時停止を押し、画面でフリーズしているサウスポーの選手を指差した。


「高速サーブの場合、ラケットがボールを捉えてからサービスエリアに叩き込まれるまで、レシーバーに残された反応時間は0.5秒未満だ。ボールがネットを越えてから追いかけたって、残像にすら追いつけねえよ。唯一の最適解は、相手がトスを上げてジャンプした瞬間に、落下点を予測してスプリットステップを踏むことだ」


彼は視線を画面の敵に戻した。


「こいつはサウスポーだ。左利き特有のスライスサーブは逆回転がかかっていて、ワイドに打たれるとバウンド後にコートの外へえげつない角度で逃げていく。トスのモーションの隠蔽が上手くて、今はまだセンターとワイドに打ち分ける時のフォームの差異が掴みきれていない」柊斗は再びリプレイボタンを押し、絶対的な自信に満ちた狂気じみた声で言った。


「俺がこいつに勝つのは当然だ。だが、ただ勝つだけじゃない。俺はこいつのサービスゲームで、直接リターンエースを叩き込んで、ボールの毛一本すら触らせずに絶望させてやるんだよ」


映像が巻き戻り、再びスローモーションで再生される。トス、ジャンプ、インパクト。


その傍若無人な宣言を聞き終えた奏は、再び重い瞼を垂れ下げ、画面の中で永遠にサーブの動作を繰り返しているサウスポーの選手に視線を戻した。


画面の中で左手でトスを上げ、テイクバックし、タメを作ってジャンプする一連の動作が、長年高リフレッシュレートのゲーミングモニターを見つめ続けてきた奏の目には、自動的にコマ送りされ、攻撃判定ヒットボックスを持ったフレーム単位のモーションとして分解されていった。


『微細な身体のねじれによって死角を作り、本当の攻撃意図を隠す』というこの手口は、奏に言わせれば、ハードコア死にゲーACT『アビスナイツ』に登場する隠しボス「ハルバードの処刑者」と全く同じシステムだった。


あのボスはランダムなディレイ攻撃の派生モーションを持ち、攻撃の落下点が不規則で、プレイヤーのパリィのタイミングを完全に狂わせてくる。だが、初期装備の「錆びた鉄剣」一本でノーダメ・パターン構築クリアを果たしたガチ勢の奏からすれば、こんな目眩しはチュートリアルレベルの安っぽいギミックに過ぎない。


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