第3話 帳簿を見せてください
帳簿を見せてくださいませ。
夫の顔から、みるみる血の気が引いていった。
メルクリウス子爵夫人の報告は、そう始まっていた。
『夫は書斎で仕事をしていました。
私が入ると少し驚いた顔をしました。普段、妻が書斎に来ることはないので。
「帳簿を見せてくださいませ」と言いました。
声が震えなかったのが不思議でした。何度も練習したからかもしれません。鏡の前で、二十回くらい。
夫は「なぜ」と言いました。
「持参金の管理状況を確認したいのです。婚姻法第三十七条に基づき、名義人には閲覧の権利があると聞きました」
条文番号を言った瞬間、夫の顔が変わりました。
いえ、変わったというより、固まった、というほうが正しいかもしれません。
それからとても長い沈黙がありました。
夫は「今は忙しい」と言って、帳簿を出しませんでした。
でも、私は見ました。
夫の手が、引き出しの取っ手に触れていたのを。
あの引き出しに帳簿があるのだと思います。
次は夫の外出中に確認するつもりです。
管理人さま、皆さま。怖かったです。
でも、夫が怖がっているのも、分かりました。
それが少し、力になりました』
通信板を閉じて、目を擦った。
朝から読みすぎている。互助会の書き込みは日に日に増えていて、返信が追いつかない。相談員時代にも同じ状況があった。電話が鳴り止まない朝。あの時は胃を壊した。
今世では胃薬がない。この世界に胃薬があるのかどうかすら知らない。
子爵夫人の報告について、六法全書さんがすぐに法的見解を付けてくれていた。
『帳簿の閲覧を拒否された場合、名義人は教会の登録所経由で財産状況の開示を請求できます。
ただし、この手続きには公式な書面が必要です。
まずは非公式に、夫の外出中に帳簿を確認し、写しを取ることを推奨します。
原本は必ず元の場所に戻してください。
持参金流用は婚姻法第四十一条で禁止されています。
証拠があれば、将来的に正式な法的手続きに移行できます』
この人の条文引用の速さは異常だ。
法令集を丸暗記しているか、手元に法令集がある仕事をしているか。どちらにしても、普通の匿名ユーザーではない。
だが今は、ありがたい。
子爵夫人が帳簿を確認できれば、持参金の流用額が分かる。それは「鍵を変える」よりもずっと大きな一歩だ。法的な証拠になりうる。
でも、条文の原文を自分の目で確認したい。
六法全書さんの引用は正確だろうけれど、研修で叩き込まれた鉄則がある。「二次情報を鵜呑みにするな。原典に当たれ」。
婚姻法の原文を読める場所。
宰相府の法令閲覧室。
貴族なら無料で閲覧できる。男爵家の三女でも、貴族は貴族だ。
外出用の上着を引っ張り出した。袖口のレースが少しほつれている。姉たちのお下がりだから仕方ない。
宰相府は王城の東棟にある。
社交の用事で王城に来たことは何度かあるけれど、東棟は初めてだった。廊下が妙に静かで、石の床に自分の靴音だけが響く。壁に掛かった肖像画がやたらと多くて、どれも似たような厳めしい顔をしている。歴代の宰相か何かだろう。
法令閲覧室は三階にあった。
重い扉を開けると、想像より広い。天井まで届く書架が何列も並んでいて、革張りの背表紙が整然と詰まっている。窓からの光が斜めに差して、埃が細かく舞っていた。インクと古い紙の匂い。前世の大学図書館を思い出す匂いだ。
受付台に閲覧申請書が置かれていた。名前と閲覧目的を書く。「フェルトハイム・リコリス。婚姻法の条文確認」。ペンのインクが少し薄い。
窓口に若い男が一人座っていた。
書類の山に埋もれるようにして、何か読んでいる。茶色の髪を後ろで簡素に束ねていて、眼鏡はかけていないが、目を細めて紙面に近づいている。目が悪いのかもしれない。法務官の制服を着ている。袖に小さなインクの染みがあった。
「あの、法令の閲覧をしたいのですが」
男が顔を上げた。
「はい。どの法令でしょうか」
声が低い。でも小さい。窓口業務に慣れていない人の声量だった。
「婚姻法を。特に第三十七条から第四十五条あたりを」
「婚姻法ですね。少々お待ちください」
男が立ち上がって書架に向かった。背が高い。法務官の制服は仕立てが地味で、身体の線が分かりにくいけれど、歩き方は確かだ。迷わず特定の棚に向かい、一冊を抜き出した。
戻ってきた法令集を見て、少し驚いた。
付箋が貼ってあった。
薄い青の紙片が、何ヶ所かに挟まれている。三十七条、四十一条、四十三条。ちょうど私が読みたい範囲に。
「……これ、付箋が」
「あ、すみません、私が調べ物をしていた時のものです。剥がしましょうか」
「いえ、むしろ助かります。ちょうどこの範囲を探していたので」
男が少し目を見開いた。
「婚姻法のその条文を閲覧される方は、珍しいです」
「独学で法律を勉強しているんです」
嘘ではない。前の人生で勉強していた。
男は何か言いかけて、やめた。それから「閲覧席はあちらです。お時間に制限はありません」と言った。
「ありがとうございます、リンドグレン様」
名札を見て言った。「リンドグレン」と小さく刻まれた真鍮のプレート。
男が少し姿勢を正した。何か返事をしたが、声が小さすぎて聞き取れなかった。私はそのまま閲覧席に向かったので、彼の耳が赤くなっていたことには気づかなかった。
法令集を開く。
三十七条。持参金の管理権は名義人に帰属する。六法全書さんの引用は正確だった。
四十一条。婚姻中の持参金流用の禁止。違反した場合の罰則規定。ここは六法全書さんが引用していなかった部分だ。「流用額の全額返還+流用額の二割に相当する損害賠償金」。重い。
四十三条。離縁の条件。
ここだ。
現行法では、離縁は男性側からのみ申し立て可能。正当事由は不要。一方的宣告で成立する。
女性側からの離縁申し立てに関する条文は、ない。
空白だ。法令集のページに、書かれていない条文の空白がある。
でも。
付箋の一つに、細かい字で何かメモが書かれていた。リンドグレンの字だろう。
「判例参照:白鷺事件(六十二年)、ヴェスターマン離縁訴訟(七十年)、灰色の城館事件(八十一年)」
判例が三つ。
女性側からの離縁に関する前例が、過去にあったということだ。成文法には書かれていないが、判例法として。
この人、同じことを調べている。
通信板を開いた。六法全書さんにメッセージを送る。
『六法全書さま。
法令閲覧室で婚姻法を確認しました。引用は正確でした。ありがとうございます。
四十三条に関連する判例が三件あるようです。
白鷺事件、ヴェスターマン離縁訴訟、灰色の城館事件。
ご存知でしたか?
女性側からの婚姻解消請求について、前例があるなら整理する価値があると思います』
返信は数分で来た。
『管理人殿。法令閲覧室まで足を運ばれたのですか。
その三件は把握しています。
いずれも例外的な事案として処理されていますが、判例としての価値はあります。
整理します。少しお時間をください。
——それにしても、独学で婚姻法の判例にまでたどり着く方は珍しい。
失礼ですが、法学の素養がおありですか』
鋭い。
『独学です。本が好きなので』
これ以上は答えない。匿名の壁は、互いに守るべきものだ。
法令集を返しに窓口へ行くと、リンドグレンがまた書類に埋もれて何か読んでいた。
「ありがとうございました。とても助かりました」
「いえ。また必要であれば、いつでもお越しください」
事務的な返事だったけれど、最後に少しだけ間があった。何か言おうとして、やめたような間。
気にせず閲覧室を出た。階段を降りながら、通信板を確認する。
互助会のスレッドに、新しい書き込みが入っていた。
見た瞬間、足が止まった。
『互助会とかいうスレッドの管理人へ。
お前たちがやっていることは貴族社会への反逆だ。
夫婦の問題に部外者が口を出すな。
すぐにスレッドを閉鎖しろ。
さもなければ——』
脅迫だ。
階段の途中で、手すりを掴んだ。
あの頃のことが蘇る。事務所に怒鳴り込んでくる加害者。脅迫メール。無言電話。「余計なことをするな」。「家庭の問題に口を出すな」。
肩が固くなる。首の後ろが冷たい。
何かが動き始めると、必ず押し戻そうとする力が現れる。
通信板を見つめた。参加者たちの反応が散らばっている。
『怖い……』
『やっぱり無理なんでしょうか』
『閉鎖したほうがいいのでは……』
怯えが広がっている。
返信を打とうとして、指が動かなかった。あの頃のトラウマが邪魔をする。脅迫が来た後に踏ん張りすぎて、結局自分が壊れた。
でも。
通信板に、六法全書さんの書き込みが入った。
『この書き込みは脅迫罪の構成要件を満たしています。
ただし、匿名である以上、現時点で差出人の特定は困難です。
魔導通信板の匿名書き込みの特定には、王室魔導局の特別令状が必要であり、発行には国王の承認を要します。
しかし、書き込み自体は証拠として保全されます。
魔導通信板の書き込みには魔法的署名が付されており、改竄は不可能です。
つまり、この脅迫の記録は消えません。
もし今後、この人物が匿名の壁を超えて現実世界に踏み込んできた場合、手紙、接触、物理的な威嚇など、その時点で追跡が可能になります。
管理人殿、参加者の皆さま。
恐れることは自然です。
しかし、法はあなたがたの側にあります。
脅す側が証拠を残してくれたのです。これはむしろ、感謝すべきことかもしれません』
最後の一行で、少しだけ笑った。
感謝すべきことかもしれません。
この人は本気で言っている。法律家の皮肉だ。脅迫を受けた時に、「証拠をありがとう」と言える人間。日本にいた頃の顧問弁護士に似ている。あの人も、加害者の怒鳴り声を録音しながら「これは助かりますね」と言っていた。
怯えていた参加者たちの空気が、少し変わった。
『証拠として保全されるんですね。消えないんですね』
『脅す側がリスクを負っているということ?』
『六法全書さますごい……冷静……』
『逆に安心しました。法律が味方なんですね』
返信を打つ。
『皆さま、怖いと感じるのは当然です。
無理をする必要はありません。
ただ、一つだけ知っておいてください。
この掲示板の書き込みは、魔法的に保護されています。
消せない。改竄できない。
それは皆さまの声にとっても、脅迫者の言葉にとっても同じです。
私たちの記録は守られています。
怖い時は離れてください。戻りたい時に戻ってきてください。
互助会はここにあります』
送信した。
階段の踊り場で、しばらく動けなかった。
壁にもたれて、呼吸を整える。宰相府の廊下は静かで、遠くから書記官たちの声が微かに聞こえる。窓から見える中庭で、誰かが花壇の手入れをしていた。
あの頃のことを思い出していた。
脅迫が来た後、代表に「もう限界です」と言えなかった夜。缶コーヒーを二本飲んで、翌朝も普通の顔をして出勤した。三ヶ月後に倒れた。
今世では倒れない。
倒れないように、する。
六法全書さんが「無理はしないで」と言った理由が、少しだけ分かった気がした。あの人も、たぶん、無理をする人間が近くにいたことがあるのだろう。
宰相府を出た。
夕暮れの空が広い。春の風が少し冷たくて、ほつれた袖口のレースが揺れた。
通信板に通知が一つ。
子爵夫人からだった。
『管理人さま。
夫が外出しましたので、帳簿を確認しました。
写しを取りました。
金額を見て、手が震えました。
詳しくは明日、ご報告します』
足を止めた。
帳簿を見た。写しを取った。そして、金額を見て手が震えた。
それが意味することは一つだ。
持参金は、流用されている。




