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【悲報】また夫が浮気してる模様  作者: 秋月 もみじ


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第2話 鍵を変えただけで、夫が慌てるなんて


 互助会スレッドの書き込み数が、三日で二百を超えた。


 予想はしていた。あの五年間でも、匿名の相談窓口を開設した初月に問い合わせが殺到して、回線がパンクしたことがある。声を上げる場所がなかっただけで、声を上げたい人間はいつだって大勢いる。


 問題は、声が上がった後だ。


 朝食の席で、今日も姉たちの婚約話が続いている。長姉のヴェールの刺繍がどうの、次姉の婚約者の領地がどうの。母が「リコリスも少しは社交の場に出なさい」と言ったが、父が「三女はまだ急がなくていい」と遮った。いつものことだ。


 パンに手を伸ばしながら、通信板を確認する。食卓の下で光る板を見ているのは行儀が悪いが、誰も私の手元なんか見ていない。


 互助会のスレッドは、三つの方向に分かれ始めていた。


 一つは感情の吐き出し。これは大事だけれど、ここだけで止まると日本の掲示板と同じになる。叫んで、共感して、でも何も変わらない。


 二つ目は「どうすればいいか」を聞く声。これが一番多い。


 三つ目は「本当に変われるの?」という疑い。これは、正直に言えば、一番正しい反応だ。


 パンを千切る。固い。きのうの残りだろう。姉たちのほうには柔らかそうな白パンが置かれているけれど、気にしても仕方ない。三女の取り分なんてこんなものだ。


 投稿画面を開いた。


『互助会より 第一回 資産把握のすすめ


 皆さま、おはようございます。管理人です。


 まずやっていただきたいのは「自分が何を持っているか」の確認です。

 嫁入り時の持参金目録を覚えていますか?

 あれは婚姻契約書の付属書類です。写しがお手元にあるはずです。

 なければ、教会の登録所で閲覧申請ができます。


 持参金目録に載っている財産は、婚姻中であっても名義人(つまり皆さま自身)に管理権があります。

 これは婚姻法第三十七条に明記されています(六法全書さまより)


 次に確認していただきたいのは、

 ①自分名義の不動産はあるか

 ②自分名義の預金はあるか

 ③持参金として持ち込んだ動産(宝飾品等)は今どこにあるか


 すべてを一度に調べなくて大丈夫です。

 今日は①だけでも。明日②だけでも。

 少しずつ、自分の足元を確認しましょう』


 投稿する。


 六法全書さんが昨夜のうちに整理してくれた条文の要約を添付した。あの人は夜中の二時に法令の引用を完了して、「これで足りますか」とだけ書いてきた。足りるもなにも、日本にいた頃の顧問弁護士でもここまで迅速に動いてくれた人は少ない。


 何者なんだろう、あの人。


 気にはなるけれど、匿名の場で詮索はしない。相談員時代の鉄則だ。相手が名乗るまで待つ。


 反応は早かった。


 書き込みが次々と入る。


『持参金目録、探しました。婚礼道具の箪笥の奥に入っていました。十三年間、一度も開けていませんでした』


『目録を見たら、知らない項目がありました。別荘が一軒、私の名義になっているようです。夫に訊いたことはありません』


 この書き込みに、私は少し背筋が伸びた。


 別荘が自分名義。本人が知らない。つまり夫が勝手に使っている可能性がある。


 日本での相談事例が頭をよぎる。配偶者名義の不動産を、本人に無断で使用しているケース。あちらなら不動産の無断使用は問題になるが、この世界ではどうか。


 六法全書さんの投稿が入った。


『名義人の不動産に対する管理権には、鍵の管理も含まれます。

 名義人は随時、錠前の変更が可能です。

 魔法錠の場合、魔力署名による名義確認が必要ですが、手続き自体は錠師に依頼すれば即日可能です』


 つまり、鍵を変えられる。


 自分の名義の別荘なのだから、自分の判断で鍵を変えることに、法的な問題はない。


 別荘を書き込んだ人物、仮にCさんとする。すぐに返信が来た。


『でも、夫に知られたら——』


 その一文が、すべてだった。


 法的に正しくても、夫に知られたら怖い。その恐怖が、この世界の妻たちを縛っている鎖の正体だ。


 返信を打つ。


『Cさま。お気持ちは分かります。

 ただ、自分の財産を自分で管理することは、法律で認められた権利です。

 夫に「なぜ変えた」と問われたら、「防犯のため」で十分です。

 鍵を変えるかどうかは、もちろんCさまが決めてください。

 ただ、選択肢があることだけ、知っておいてほしいのです』


 送信して、パンの最後のひとかけらを口に入れた。


 姉たちはもう食堂を出ていた。母も。テーブルの上に、私の皿だけが残っている。冷めた卵は端が少し焦げていて、フォークの跡がついたまま乾いていた。


 ゲームの記憶を確認する。


 『聖女の誓い』王太子ルート。聖女を選んだ場合の展開。王太子妃が追い詰められるのは秋のイベント、ゲーム内の暦で「風の月」。今は春の月。まだ半年ある。


 でも、王太子妃だけの問題じゃない。通信板の書き込みを見ていると、この国の貴族社会には構造的に同じ問題を抱えた女性が大勢いる。ゲームでは背景でしかなかった人たちだ。


 半年。制度を動かすには短い。でも、個人が自分の足元を固めるには、少なくとも始められる。


 その日の夕方、通信板に長い報告が入った。


 Cさんだった。


『管理人さま、皆さま、ご報告です。


 本日、別荘の鍵を変えてまいりました。


 魔法錠師さんに来ていただいて、名義の確認をして、新しい錠前に交換しました。全部で二時間ほどでした。錠師さんは慣れた様子で、理由も訊かれませんでした。「名義人さまのご依頼ですから」とだけ。


 足が震えていました。馬車の中でずっと、手を組んでいないと指が揺れるので。


 でも終わってみたら、不思議な気持ちです。


 鍵を変えた。

 それだけのことなのに、初めて自分の家だと思えました。


 ——あ、夫のことですが。


 夕方、夫が例の女性を連れて別荘に行ったそうです。使用人から聞きました。

 鍵が開かなかったそうです。


 夫は玄関の前で「なぜだ」と声を荒らげたと。

 横にいた女性が「……この別荘、奥さまの名義なんですね」と言ったそうです。


 夫がその後どういう顔をしたかは、使用人も見なかったふりをしたとのことです。


 鍵を変えただけで、夫が慌てるなんて。

 十五年、知らなかった自分が少しおかしくて、少し悲しくて、でも——少しだけ、笑えました』


 笑えた、か。


 通信板の前で、私もほんの少し息を吐いた。


 これだ。この感覚を知っている。


 初めて相談者が「少しだけ笑えました」と言った時の、あの。喉の奥が詰まるような、でも泣くほどのことではない、小さな振動。


 互助会の書き込みが一斉に動いた。


『Cさま、おめでとうございます!』

『すごい。鍵を変えるだけで。でも確かに、自分の名義ですものね』

『私も持参金目録を確認します』

『怖いけど、やってみたい。できるかな』


 怖いけどやってみたい。


 その言葉が一番大事だ。恐怖があることと、動けないことは違う。怖くても動ける条件を整えるのが、支援者の仕事。


 画面を下にたどると、新しい書き込みがあった。


『管理人さまへ。

 私も、確認したいことがあります。

 夫の帳簿を見せてもらったことがありません。

 持参金がどう使われているのか、一度も。

 明日、帳簿を見せてくださいと言ってみます。

 怖いですが、Cさまの報告を読んで、少しだけ勇気が出ました』


 帳簿。


 これは鍵の変更より大きい。帳簿を見れば、持参金の流用が分かる可能性がある。証拠になる。でもそれは同時に、夫との関係が決定的に変わる瞬間でもある。


 返信を打ちかけて、やめた。


 軽率に「頑張って」とは言えない。帳簿を見ることのリスクも、見た後の感情も、この人が一人で受け止めなければならない。


 慎重に書く。


『勇気を出してくださってありがとうございます。

 一つだけお願いです。帳簿を見る時は、できれば写しを取ってください。

 魔法カメラで撮影するか、手書きで重要な数字だけ控えるか。

 原本は元の場所に戻してください。

 何かあった時のために、記録は自分の手元に置いておくことが大切です』


 送信した。


 部屋の窓が白んでいる。もう夜になっていた。夕食を食べそこねたことに気づく。


 通信板の端に、小さな通知が光っていた。


 六法全書さんからの個別メッセージだった。


『管理人殿。


 本日の助言は的確でした。

 持参金目録の確認は、法的手続きの第一歩として最も合理的です。


 一つだけ。

 無理はしないでください。

 支援者が倒れたら、被害者も困ります。


 食事はされましたか』


 最後の一行で、画面を閉じそうになった。


 なんだ、この人。


 法律の条文番号を夜中の二時に整理してくる人が、「食事はされましたか」と聞いてくる。会話の温度差がおかしい。


 返信を打つ。


『ありがとうございます。食事は、これからします(嘘ではなく本当にこれからです)。

 六法全書さまもお体に気をつけてください。深夜の法令整理は大変でしょう』


 送信してから、台所に降りた。


 残り物のスープを温めて、固くなったパンを浸す。姉たちの食べ残しの白パンが籠に入っていたけれど、それは手をつけなかった。意地というほどのことでもない。ただ、なんとなく。


 スプーンで底をさらいながら、さっきの書き込みを思い出す。


 帳簿を見たいと言った人。明日、夫に「帳簿を見せてください」と言う。その一言が、どれほどの重さか。


 あの人の夫がどんな顔をするか。


 冷めたスープを飲み干した。


 明日の通信板を開くのが、少しだけ怖い。

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