第1話 泣き寝入りは本日で終わりです
『もう何年も夫が帰ってきません。愛人のところにいるようです。でも妻から離縁を申し出る制度はこの国にはないのです』
『分かります。うちもです。使用人のほうが夫の予定を知っています』
『夫の寝室に行ったら鍵がかかっていました。自分の屋敷なのに。笑ってしまいました』
『私は笑えませんでした』
文字が浮いていた。
薄い光の板に、誰かの言葉が次々と積まれていく。宛先のない叫び。返事のない独り言。でもそれは確かに、この世界のどこかにいる誰かが、今、書いている文章だった。
魔導通信板。
魔力を持つ人間だけに見える、光の掲示板。
子どものころから、ぼんやり見えてはいた。市場のお知らせとか、学院の試験範囲とか、そういう実用的な情報が流れてくる程度のもの。使い方がよく分からなかったし、興味もなかった。
今日までは。
リコリス・フェルトハイム。十八歳。男爵家の三女。
前世の記憶を取り戻したのは、二年前の十六歳の誕生日だった。卵料理が冷めた朝食の席で、姉ふたりの婚約話を聞き流しながら、唐突に、すべてを思い出した。
日本。NPO法人「つながるかけはし」。不倫・DV被害者の相談窓口を五年間やっていた、二十八歳の私。
そして、このもう一つの記憶。乙女ゲーム『聖女の誓い』。前世の私が休日にだらだらプレイしていたあのゲーム。王太子ルートで聖女を選ぶと、王太子妃がどうなるか。
自ら命を絶つ。
BAD ENDのスチルは、薄暗い塔の窓辺だった。テキストは短かった。彼女の名前すら表示されなかった。王太子妃はゲームにおいて、名前のある人間ですらなかった。
私はスマホを閉じて、冷めたコーヒーを飲んで、それからバイトに行った。
なんて嫌な記憶だ。
それから二年。記憶を取り戻してからの二年間、私はモブ令嬢として静かに暮らしてきた。ゲームの物語に関わらないように。安全に。自分のために。
でも今朝、通信板を何気なく開いて、この書き込みの群れを見てしまった。
今日の朝食も、姉たちの話が中心だった。長姉の婚約が正式に決まり、次姉の相手探しが本格化している。母が「リコリスも少しは社交の場に出なさい」と言ったが、父が「三女はまだいい」と遮った。
三番目だから。いつも三番目。
それは今に始まったことじゃないし、日本にいた頃だって同じだった。自分のことは後回し。誰かの問題に首を突っ込んでは、帰りの電車で缶コーヒーをすする日々。恋人にも友人にも「お前は他人の人生ばっかり生きてる」と言われて、気がついたら誰もいなくなっていた。
だから今世こそは、自分のために生きる。
モブはモブらしく。
安全に、静かに、誰にも関わらず。
通信板を閉じようとした。
『本日も殿下は聖女さまと薬草園にお出かけです。予算案は私がまとめたものですが、殿下のお名前で発表されるようです。私の存在意義とは何なのでしょう。でもこれが王太子妃の務めだと、自分に言い聞かせています』
指が止まった。
この書き方。この距離感。この、自分を納得させようとして納得できていない文章の震え。
相談員をやっていた時に、何百回も見た書き方だ。
追い詰められている人間の文章には特徴がある。怒りではなく、諦めが先に来る。「仕方ない」「私が悪い」「これが普通」。自分を守る言葉を、自分で潰していく。
そして最後に、塔の窓辺に立つ。
通信板をもう一度開いた。匿名のスレッドがいくつも並んでいる。書き込みの数は多い。でもどれも、返事がない。共感もない。助言もない。ただ叫んで、流れて、消えていく。
これは、SNSと同じだ。
構造が見える。あの五年間で学んだことが、全部使える。匿名の掲示板、孤立した被害者、声を上げても届かない制度、妻からの離縁権がない法律。これは「仕組みの問題」だ。個人の不運じゃない。
でも。
胸の奥が詰まる。
日本にいた時も同じだった。「仕組みの問題」が見えてしまうと、動かずにいられなかった。そのせいで全部失った。恋人も、友達も、健康も、自分の時間も。支援者が当事者になったら終わりだと、研修で何度も言われたのに。
だから今世こそは、自分のために。
スレッドを下にたどった。
『夫が愛人に買ってあげたネックレスの値段を、使用人伝いに知りました。私の持参金です。私の実家が、娘の幸せを願って持たせてくれたお金です。でも妻からは何も言えません。制度がないのですから』
椅子の背に力が入った。
ゲームの中では、王太子妃は名前すら持たない背景だった。でもこの世界では、通信板の向こうで、今この瞬間も、誰かがこの文章を打っている。冷めた茶を前にして。震える指で。
仕方ない、じゃないんだよ。
新しいスレッドを立てた。
タイトルを打つ。
『——サレ妻互助会——』
本文を書く。研修テキストが頭の中に蘇る。ガイドラインの一行目。「まず安全の確保。次に事実の記録。そして選択肢の提示」。
『皆さま、泣き寝入りは本日で終わりです。
まずは現状の記録から始めましょう。
①配偶者の不在日時を記録してください。
②自分名義の財産の一覧を確認してください。
③信頼できる人物を一人だけ決めてください。
詳しい方法は順次お伝えします。
ここでは匿名です。安全です。
一人で抱えないでください』
投稿ボタンを押す。
十分経った。
三十分経った。
一時間。
通知が鳴り始めた。
『本当ですか。本当に方法があるのですか』
『十二年間、誰にも言えませんでした』
『私だけだと思っていました』
『記録の仕方が分かりません。教えてください』
『匿名でいいのですね。それなら』
書き込みが止まらない。
画面が揺れるほどの速度で、言葉が積まれていく。怒りと安堵が入り混じった、不揃いな文字列。句読点の打ち方がばらばらで、時々言葉が途切れて、それでも次の行が来る。
一人じゃなかった。
この世界でも、声を上げられないまま、静かに壊れている人がいた。
自分のために生きるって、何だろう。
あの頃と同じ轍を踏むことは分かっている。でも。
新しい書き込みが入った。
『管理人殿。感情論ではなく、法的根拠を示しましょう。そのほうが強い。
この国の婚姻法第三十七条には、持参金の管理権は名義人に帰属すると明記されています。
活用できる条文を整理します。少しお待ちを』
署名欄には、「六法全書」とだけ書かれていた。
この人。
文章が違う。感情で書いていない。構造で書いている。法律の条文番号を即座に引ける人間。文体に無駄がない。句読点の位置が正確。でも最後の「少しお待ちを」だけ、ほんの少し人間くさい。
官僚か。判事か。とにかく、法律を仕事にしている人だ。
味方か、監視か。
いや。監視なら、こんな具体的な条文番号は出さない。見張るだけで十分なのに、わざわざ武器を渡す監視者はいない。
返信を打った。
『六法全書さま。ありがとうございます。
法的根拠の整理をお願いできますか。
感情では制度は動きませんが、条文なら動く可能性があります』
送信する。
窓の外では、もう日が傾き始めていた。姉たちのドレスの相談は、まだ階下から聞こえている。三女のことなど、誰も気にしていない。
好都合だった。
通信板に新しい書き込みが入る。長い。とても長い。投稿者名は伏せられているが、文体で分かる。あの王太子妃と思われる人だ。
『管理人さま。先ほどの書き込みを読みました。
お聞きしてもよろしいでしょうか。
実は、夫の不倫だけではないのです——』
読みかけた文章の上に、画面が揺れるほど次の行が続いていく。
冷めた卵の皿を横にどけた。
椅子を引き直す。
ゲームでは、この人には名前すらなかった。
今度は、ある。




