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【悲報】また夫が浮気してる模様  作者: 秋月 もみじ


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4/10

第4話 妻たちの様子がおかしい


 宰相府の階段は、思ったより急だった。


 十日前に来た時は気にならなかったのに、今日は妙に足が重い。昨夜遅くまで互助会の書き込みに返信していたせいだろう。子爵夫人の帳簿の写しを六法全書さんと精査して、流用額を確認して、今後の法的手続きの選択肢を整理して、気がついたら窓の外が白んでいた。


 今日、宰相府に来たのは判例の原文を読むためだ。


 六法全書さんが整理してくれた三件の判例。白鷺事件、ヴェスターマン離縁訴訟、灰色の城館事件。どれも「女性側からの婚姻解消」が争点になった過去の事案で、成文法にはない前例として記録されている。


 原文を自分の目で読みたかった。判例の細かいニュアンスは、要約では落ちる。


 三階の法令閲覧室の扉を開けると、前回と同じ人が窓口にいた。


 リンドグレン。


 今日も書類の山に埋もれている。前より山が高い気がする。書類の端が少し折れていて、一番上の書類にはインクが乾ききっていない赤い書き込みがあった。校正か何かの作業中らしい。


「あの、また法令の閲覧をしたいのですが」


 リンドグレンが顔を上げた。一瞬、目が合って、それから、ほんの少しだけ姿勢が変わった。背筋が伸びたというほどでもない。椅子に座り直した、という程度のこと。


「フェルトハイム嬢。いらっしゃいませ。今日はどの法令を」


 名前を覚えられている。前回、閲覧申請書に書いた名前を覚えていたのだろう。法務官はそういうことに几帳面なのかもしれない。


「判例集を。婚姻法関連の過去の裁判記録があれば」


「判例集ですか」


 リンドグレンが立ち上がった。書架の奥、前回とは別の棚に向かう。歩きながら振り返った。


「婚姻法の判例を閲覧される方は、本当に珍しいです。この閲覧室に五年いますが、初めてかもしれない」


「そうなんですか」


「ええ。大抵の方は商法か税法です。婚姻法の判例まで踏み込む方は」


 言いかけて、口を閉じた。


「すみません。余計なことを」


「いえ。独学で法律を勉強していると、判例まで読みたくなるんです」


 嘘ではない。前の人生では判例集を枕にして寝落ちしたことがある。


 リンドグレンが分厚い革張りの判例集を持ってきた。今回も付箋が貼ってある。白鷺事件のページに青い付箋。ヴェスターマン離縁訴訟に緑。灰色の城館事件に黄色。


 色分けされている。


「またリンドグレン様の付箋が」


「……すみません。最近、同じ分野を調べる機会がありまして」


 法令集を渡される時、手が少し近かった。受け取って、閲覧席に向かう。


 この人も、同じ判例を調べている。


 偶然だろうか。宰相府の法務官が、業務で婚姻法の判例を調べることはあるかもしれない。制度改革の検討とか、法案の起草準備とか。


 でも三件とも、女性側からの婚姻解消が争点になった事案だ。六法全書さんが互助会で引用した判例と、完全に一致する。


 まさか。


 考えすぎだ。法律の専門家なら同じ判例にたどり着くのは不自然じゃない。


 閲覧席で判例集を開いた。白鷺事件。六十二年前の事案。伯爵夫人が、夫の不貞を理由に婚姻の無効を主張した。結果は棄却だが、判決文の中に「不貞行為が婚姻の根幹を破壊した場合の救済措置について、立法による解決が望ましい」という附帯意見がある。


 六十二年前に、裁判官がこう書いている。でも六十二年経っても、立法はされていない。


 メモを取る。附帯意見の文言を正確に書き写す。これは使える。前例として弱くても、裁判官が問題を認識していた証拠になる。


 二時間ほど読み込んで、判例集を返しに行った。


 窓口でリンドグレンに冊子を渡す。


「ありがとうございました。判例の附帯意見まで読めたのは大きかったです」


「附帯意見を」


 リンドグレンの目が少し変わった。普段の事務的な表情から、何か。興味、というのが近いだろうか。


「あの附帯意見に着目されるとは。法学の素養がおありなのでは」


「独学です」


「独学で附帯意見まで読む方に、お会いしたのは初めてです」


 褒められているのかどうか分からない。ただ、この人の声が少しだけ大きくなっていた。窓口業務に慣れていない小さな声が、ほんの少し。


「またお越しください。判例集は他にもあります。閲覧室の利用者が少ないので」


 言いかけて、またやめた。今度は首の後ろに手をやった。


「いえ、業務上の案内です。失礼しました」


「ありがとうございます。また来ます」


 閲覧室を出て、階段を降りる。


 三階から二階への階段は急で、石段の角が丸く擦り減っている。何百年分の靴底で削られたのだろう。手すりの鉄が冷たい。


 曲がり角で、上から来る足音が聞こえた。


 速い足音。書類を抱えた誰か。


 リンドグレンだ。


 曲がり角で鉢合わせた。リンドグレンは両腕に書類の束を積み上げていて、前が見えていない。私は判例のメモに気を取られて、足元を見ていなかった。


 石段の角に靴が引っかかった。


 バランスを崩す。手すりに手を伸ばしたが、届かない。


 落ちると思った瞬間、背中に固いものが当たった。


 壁ではない。


 リンドグレンが、書類を両腕に抱えたまま、身体を階段の壁側に寄せて壁を作っていた。手が塞がっているから、腕では支えられない。だから背中と肩で、私が転がり落ちるのを止めた。


 書類が何枚か散らばった。


「すみません、手が塞がっていて」


 至近距離で声が降ってくる。低い声。顎の下に、剃り残しが一ヶ所あった。


「いえ、ありがとうございます。助かりました」


 慌てて離れた。散らばった書類を拾う。リンドグレンもしゃがんで拾い始めた。膝が近い。書類の一枚を同時に掴んで、指先が触れた。


 リンドグレンが先に手を引いた。


「お怪我はありませんか」


「大丈夫です。ありがとうございます」


 書類を渡して、階段を降りた。少し速く降りすぎた気がする。


 不器用な人だな、と思った。それだけだ。


 宰相府を出て、通信板を確認した。


 互助会のスレッドに、この十日間で起きた変化の報告が集まり始めている。


『夫に「今日の予定は?」と聞くようにしました。以前は聞きませんでした。夫が少し戸惑っています』


『持参金で買った宝飾品を、自分の部屋の金庫に移しました。今まで夫の書斎にありました』


『侍女に直接指示を出すようにしました。これまで夫を通していました。侍女のほうが驚いていました』


『社交の場で、他の夫人と目が合うことが増えた気がします。以前は皆、伏し目がちでした』


 小さな変化だ。一つ一つは取るに足らない。でもこれだけの数が同時期に起きれば、夫たちの側にも変化が伝わるだろう。


 そしてその時、夫たちが何をするか。


 あの五年間の経験が教えている。妻が変わり始めた時、夫が最初にやるのは監視だ。使用人や侍女を通じて、行動を見張ろうとする。直接問い詰めるのではなく、まず情報を集める。自分の支配が揺らいでいることを認めたくないから。


 何十件もの相談で、同じパターンを見てきた。


 互助会にメッセージを送った。


『皆さま、一つ注意事項です。

 夫が皆さまの変化に気づき始める可能性があります。

 その場合、夫が取る行動として予測されるのは「監視」です。

 使用人や侍女を通じて、行動を見張ろうとするかもしれません。

 対策として——

 ①通信板の確認は必ず一人の時に行ってください。

 ②通信板を見ている姿を使用人に見られないようにしてください。

 ③信頼できる使用人とそうでない使用人を見極めてください。

 ④証拠(帳簿の写しなど)は自室ではなく、信頼できる実家か友人に預けてください。

 これは予防です。怯える必要はありません。

 備えるだけです』


 送信した。


 その夜、通信板に新しい書き込みが入った。


 投稿者は、王太子妃と思われるアカウント。


『管理人さま。

 今日、少し不思議なことがありました。

 殿下が夕食の席で「最近、何か変わったことはあるか」とお尋ねになりました。

 以前ならこう答えたでしょう。「殿下にお会いできなくて寂しいです」と。

 でも今日は「いいえ、何も」と申しました。

 殿下のお顔が、少し変わりました。

 怒ったのではありません。むしろ、戸惑っていらしたように見えました。

 以前の私なら、殿下が戸惑われていることに心を痛めたでしょう。

 今日は、痛みませんでした。

 不思議です。

 ただ穏やかに微笑むだけで、人はこんなにも相手を不安にさせるのですね。

 管理人さま、これは「ざまぁ」というものなのでしょうか。

 ——すみません、互助会で覚えた言葉を使ってみたくなりました』


 思わず口元を押さえた。


 王太子妃が「ざまぁ」を使っている。


 だめだ、笑ってはいけない。いけないのだけれど。


 この人が「ざまぁ」という庶民的な言葉を、わたくし口調で使っている絵面が、おかしい。


 でも、笑いの下に冷たいものがある。


 「殿下が戸惑っていた」。


 監視が始まる前兆だ。自分の思い通りにならないものを放置できない人間は、まず探ろうとする。


 通信板に通知。王太子妃からの追記。


『追伸。

 殿下が侍女のアルマに何か話しかけていらっしゃるのを見ました。

 アルマは私の侍女の一人ですが、あまり親しくない子です。

 少し気になりました。

 考えすぎかもしれませんが』


 考えすぎではない。


 侍女を使った情報収集。典型的なパターンだ。


 返信を打つ。


『考えすぎではないかもしれません。

 直前の助言を確認してください。監視への対策を共有しています。

 特に、信頼できる侍女とそうでない侍女の見極めが重要です。

 証拠や記録は、信頼できる方にのみ預けてください。

 そして、ざまぁ、いい言葉を覚えましたね』


 送信した。


 六法全書さんにも個別メッセージを送った。


『六法全書さま。

 王太子妃さまの周辺で、監視の動きがあるかもしれません。

 法的に、配偶者が配偶者の侍女を通じて行動を監視することに、違法性はありますか』


 返信は五分後に来た。


『管理人殿。

 配偶者の行動監視自体は、現行法に明確な禁止規定はありません。

 ただし、監視の結果得た情報を第三者に開示した場合、名誉毀損の構成要件を満たす可能性はあります。

 また、監視を理由に配偶者の移動や通信を制限した場合、人身の自由の侵害として問題になりえます。

 いずれにしても、監視されている側が記録を取ることは合法です。

 記録を取ってください。いつ、誰が、何をしたか。

 証拠は、後で必ず役に立ちます』


 的確だ。いつも通り。


 通信板を閉じて、窓の外を見た。春の月の終わり。夜風が少し暖かくなってきた。


 ゲームでは王太子妃のBAD ENDは秋だった。まだ時間はある。


 でもこの世界は、もうゲームの通りには進んでいない。互助会という変数が入った。複数の夫人が同時に変化している。夫たちが気づき始めている。


 予測できない駒が動き始めている。


 窓を閉めた。


 明日は互助会の法的戦略を整理する日だ。六法全書さんが判例の分析を仕上げてくれるはず。


 ベッドに入る前に、ふと思った。


 この二年間、モブとして静かに暮らしてきた。自分のために生きると決めて。


 なのに結局、また人のために動いている。


 でも、前世とは少し違う。


 前世では一人だった。今は、通信板の向こうに、同じ方向を見ている人たちがいる。


 六法全書さんがいる。


 それが、思ったより大きい。

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