9話「それは仕事じゃない」
その日は、行くつもりじゃなかった。
でも、気づいたら足が向いていた。
理由は、分かってる。
分かってるけど、認めたくないだけだ。
「……いらっしゃいませ」
受付の声を聞きながら、名前を書く。
ペンが少しだけ重い。
「ご指名は?」
一瞬、迷う。
迷う時間なんて、本当はいらない。
もう決まってる。
「……ユイで」
口に出した瞬間、少しだけ息が詰まる。
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案内された部屋で待つ。
いつもと同じはずの空間。
でも、全然違う。
静かすぎる。
落ち着かない。
数分後、ドアがノックされる。
「失礼します」
聞き慣れた声。
でも、少しだけ遠い声。
ドアが開く。
ユイが入ってくる。
目が合う。
一瞬だけ、止まる。
でも——すぐに笑う。
完璧な笑顔。
「今日は来てくれたんだ」
店の声。
店の距離。
全部、いつも通り。
「……ああ」
それだけしか返せない。
違和感が強すぎる。
「どうする? 今日はゆっくりする?」
距離が近づく。
自然な動き。
慣れた動き。
——仕事としての動き。
「……やめろ」
思わず言う。
ユイの動きが、一瞬だけ止まる。
「なにが?」
笑顔は崩さない。
でも、目だけ少し変わる。
「それ」
「これ?」
「……そういうの」
言葉がうまく出てこない。
でも、止められない。
「……仕事だから」
あっさり言う。
それが正しい。
分かってる。
でも——
「違うだろ」
即座に返す。
ユイの表情が、わずかに崩れる。
「……なにが」
「それ、仕事じゃない」
言い切る。
空気が、一気に張り詰める。
「……じゃあなに」
低い声。
初めて聞くトーン。
「……知らねえよ」
「じゃあ言わないで」
少し強くなる。
でも、完全に怒ってるわけじゃない。
揺れてる。
「……あんたが来たんでしょ」
続ける。
「お金払って」
「分かってる」
「じゃあ」
「でも」
遮る。
止まらない。
「それで触られるの、嫌だ」
言い切る。
完全に、本音。
ユイが、完全に止まる。
数秒。
沈黙。
「……なにそれ」
小さく笑う。
でも、その笑いは——弱い。
「意味わかんない」
「いいから」
「よくない」
言い切る。
そのまま、一歩近づく。
距離が詰まる。
店の距離じゃない。
「……あんたさ」
「なんだよ」
「ずるい」
また、その言葉。
「仕事のときは仕事なの」
「知ってる」
「知ってるなら」
「でも」
また遮る。
「それで触られるのは違う」
もう一度言う。
今度は、さっきより強く。
「……」
ユイが、何も言わない。
言えない。
分かってる。
同じこと思ってる。
「……ほんと、やりづらい」
小さく呟く。
前にも聞いた言葉。
でも、意味が違う。
完全に。
ユイが、ゆっくり近づく。
一歩。
また一歩。
逃げない。
逃げられない。
距離が、ゼロになる。
「……じゃあ」
小さく言う。
「仕事じゃなかったら、いいの?」
一瞬、言葉が詰まる。
でも——
「……いい」
即答だった。
ユイが、少しだけ息を止める。
ほんの一瞬。
それから——
「……ばか」
小さく言う。
そのまま——
キスする。
触れるだけ。
本当に軽く。
でも、確実に。
時間は、ほんの一瞬。
すぐに離れる。
「……これでいい?」
少しだけ震えた声。
でも、目は逸らさない。
「……いや」
正直に言う。
ユイが、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「足りない」
続ける。
そのまま——
今度は、こっちから。
触れる。
さっきより、少しだけ長く。
でも、まだ短い。
深くはしない。
できない。
そこまでは、まだ行けない。
離れる。
「……これも、仕事じゃない」
小さく言う。
ユイが、完全に黙る。
何も言えないみたいに。
数秒。
そのまま止まる。
それから——
「……帰って」
ぽつりと言う。
さっきまでとは違う声。
少しだけ震えてる。
「……ああ」
それ以上は言わない。
言えない。
ドアに向かう。
開ける。
出る直前。
「……また来る?」
後ろから声。
振り返る。
ユイが、こっちを見ている。
店の顔じゃない。
でも、完全な素でもない。
中間。
揺れてる顔。
「……行かない」
はっきり言う。
「……そう」
少しだけ笑う。
寂しそうでもあり、安心したみたいでもある。
「……隣にいるし」
続ける。
一瞬、間があって。
ユイが、少しだけ目を細める。
「……ばか」
今度は、少しだけ柔らかい声。
そのまま、ドアが閉まる。
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外に出る。
夜の空気が冷たい。
でも、さっきまでの熱が残ってる。
消えない。
多分、しばらく消えない。
「……戻れないな」
小さく呟く。
もう、完全に越えた。
あの線は。
でも——
後悔は、なかった。




