表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/18

10話「壊れかけの均衡」

 それから数日。


 ユイと、まともに話していない。


 避けているわけじゃない。


 でも、タイミングが合わない。


 ——そういうことにしている。


「……」


 分かってる。


 避けてるのは、どっちもだ。


---


 廊下で顔を合わせても、軽く会釈するだけ。


 会話は続かない。


 続けない。


 あの夜のことに触れたら、全部崩れる気がするから。


 でも——


 崩れているのは、もう分かっている。


---


 その日、帰りが少し遅くなった。


 廊下の電気がついている。


 でも、人はいない。


 静かだ。


 静かすぎる。


「……」


 違和感。


 隣のドアを見る。


 鍵は閉まっている。


 でも——


 中に気配がある。


 音が、少しだけ聞こえる。


 何かが落ちる音。


「……おい」


 ノックする。


 返事はない。


「ユイ」


 もう一度。


 少し強く叩く。


 数秒。


 それから——


 ドアが、ゆっくり開く。


「……なに」


 ユイが出てくる。


 でも——


 明らかにおかしい。


 髪は少し乱れてる。


 目が、合ってない。


「……どうした」


「別に」


 即答。


 でも、声が揺れてる。


「顔、やばいぞ」


「やばくない」


 笑う。


 でも、その笑いは——崩れてる。


「……入るぞ」


「来なくていい」


 すぐに返す。


 でも——


 弱い。


 押せば入れる。


 そんな拒否。


「いいから」


 そのまま中に入る。


 止めない。


 止められない。


 部屋の中。


 少し散らかっている。


 いつもより、明らかに。


「……なにこれ」


「普通」


「普通じゃないだろ」


 床に座るユイ。


 壁にもたれている。


 目を閉じている。


「……仕事、どうした」


「行った」


「ほんとかよ」


「……途中で帰った」


 小さく言う。


 初めてのパターン。


「……なんで」


「無理だった」


 それだけ。


 理由は言わない。


 でも——


 分かる。


「……」


「……」


 沈黙。


 でも、逃げない沈黙。


 ユイが、少しだけ目を開ける。


「……あんたさ」


「ん」


「なんで来るの」


「……隣人だから」


 少しだけ間を置いて言う。


 ユイが、小さく笑う。


「……それ、ずるい」


「そうか」


「……うん」


 弱い声。


 完全に、いつものユイじゃない。


「……仕事、変えればいいのに」


 思わず言う。


 一瞬で、空気が変わる。


 ユイが、目を開ける。


 はっきりと。


「……簡単に言うね」


 低い声。


 でも、怒ってはいない。


 ただ——


 現実を突きつけてくる声。


「……できない」


 続ける。


「やめたら終わるから」


「なにが」


「……いろいろ」


 曖昧な言い方。


 でも、重い。


「……借金か」


 口に出す。


 一瞬だけ、ユイの動きが止まる。


 それで、十分だった。


「……当たり」


 小さく笑う。


 でも、その目は笑ってない。


「……いくら」


「聞くの?」


「……デリカシー無いよな」


 少し間が空く。


 ユイが、視線を逸らす。


「……言わない」


 それ以上は踏み込ませない。


 境界線。


「……そっか」


 それ以上は聞かない。


 聞いたら、多分壊れる。


 別の意味で。


 ユイが、少しだけ体を動かす。


 バランスを崩す。


 倒れそうになる。


「……おい」


 反射的に支える。


 肩に手を回す。


 体を引き寄せる形になる。


「……」


「……」


 近い。


 また、この距離。


 でも、今は違う。


 余裕がない距離。


 ユイが、力を抜く。


 一瞬だけ、完全に預けてくる。


「……あったかい」


 ぽつりと。


 無意識みたいに。


 すぐに、ハッとする。


 離れようとする。


「……悪い」


「別に」


 でも、完全には離れない。


 中途半端な距離。


「……ほんと、無理」


 ユイが呟く。


「なにが」


「全部」


 短い答え。


 でも、それで十分。


「……あんたに会うとさ」


 続ける。


「バランス崩れる」


 正直な言葉。


 初めてかもしれない。


 ここまで言うの。


「……悪いな」


「……ほんとにね」


 少しだけ笑う。


 でも、すぐに消える。


「……でも」


 続ける。


 小さく。


「嫌じゃないのが、最悪」


 その一言で、全部止まる。


 時間が止まるみたいに。


「……」


「……」


 何も言えない。


 言葉が、意味を持たない。


 ユイが、ゆっくり顔を上げる。


 目が合う。


 逃げない。


 逃げられない。


 そのまま、少しだけ近づく。


 触れられる距離。


 でも——


 止まる。


「……ダメ」


 自分に言い聞かせるみたいに。


「……今やったら、ほんとに壊れる」


 はっきり言う。


 さっきまでより、強い声。


 理性が戻ってきてる。


「……そっか」


 それしか言えない。


 でも、分かる。


 今は違う。


 昨日とは。


「……帰って」


 小さく言う。


 でも、拒絶じゃない。


 守るための距離。


「……ああ」


 ゆっくり体を離す。


 立ち上がる。


 ドアに向かう。


 開ける前に、一瞬だけ止まる。


「……無理すんな」


 それだけ言う。


 振り返らない。


 言葉も待たない。


 そのまま出る。


 ドアを閉める。


---


 廊下に出る。


 静かだ。


 でも、さっきまでの空気が残ってる。


「……壊れる、か」


 小さく呟く。


 もう、半分壊れてる。


 でも——


 まだ戻れるラインにいる。


 ギリギリ。


 そのラインを、どっちに踏み越えるか。


「……面倒だな」


 でも、もう分かってる。


 どっちに行くかなんて。


 とっくに決まってる。


 それが、一番厄介な選択だとしても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ