10話「壊れかけの均衡」
それから数日。
ユイと、まともに話していない。
避けているわけじゃない。
でも、タイミングが合わない。
——そういうことにしている。
「……」
分かってる。
避けてるのは、どっちもだ。
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廊下で顔を合わせても、軽く会釈するだけ。
会話は続かない。
続けない。
あの夜のことに触れたら、全部崩れる気がするから。
でも——
崩れているのは、もう分かっている。
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その日、帰りが少し遅くなった。
廊下の電気がついている。
でも、人はいない。
静かだ。
静かすぎる。
「……」
違和感。
隣のドアを見る。
鍵は閉まっている。
でも——
中に気配がある。
音が、少しだけ聞こえる。
何かが落ちる音。
「……おい」
ノックする。
返事はない。
「ユイ」
もう一度。
少し強く叩く。
数秒。
それから——
ドアが、ゆっくり開く。
「……なに」
ユイが出てくる。
でも——
明らかにおかしい。
髪は少し乱れてる。
目が、合ってない。
「……どうした」
「別に」
即答。
でも、声が揺れてる。
「顔、やばいぞ」
「やばくない」
笑う。
でも、その笑いは——崩れてる。
「……入るぞ」
「来なくていい」
すぐに返す。
でも——
弱い。
押せば入れる。
そんな拒否。
「いいから」
そのまま中に入る。
止めない。
止められない。
部屋の中。
少し散らかっている。
いつもより、明らかに。
「……なにこれ」
「普通」
「普通じゃないだろ」
床に座るユイ。
壁にもたれている。
目を閉じている。
「……仕事、どうした」
「行った」
「ほんとかよ」
「……途中で帰った」
小さく言う。
初めてのパターン。
「……なんで」
「無理だった」
それだけ。
理由は言わない。
でも——
分かる。
「……」
「……」
沈黙。
でも、逃げない沈黙。
ユイが、少しだけ目を開ける。
「……あんたさ」
「ん」
「なんで来るの」
「……隣人だから」
少しだけ間を置いて言う。
ユイが、小さく笑う。
「……それ、ずるい」
「そうか」
「……うん」
弱い声。
完全に、いつものユイじゃない。
「……仕事、変えればいいのに」
思わず言う。
一瞬で、空気が変わる。
ユイが、目を開ける。
はっきりと。
「……簡単に言うね」
低い声。
でも、怒ってはいない。
ただ——
現実を突きつけてくる声。
「……できない」
続ける。
「やめたら終わるから」
「なにが」
「……いろいろ」
曖昧な言い方。
でも、重い。
「……借金か」
口に出す。
一瞬だけ、ユイの動きが止まる。
それで、十分だった。
「……当たり」
小さく笑う。
でも、その目は笑ってない。
「……いくら」
「聞くの?」
「……デリカシー無いよな」
少し間が空く。
ユイが、視線を逸らす。
「……言わない」
それ以上は踏み込ませない。
境界線。
「……そっか」
それ以上は聞かない。
聞いたら、多分壊れる。
別の意味で。
ユイが、少しだけ体を動かす。
バランスを崩す。
倒れそうになる。
「……おい」
反射的に支える。
肩に手を回す。
体を引き寄せる形になる。
「……」
「……」
近い。
また、この距離。
でも、今は違う。
余裕がない距離。
ユイが、力を抜く。
一瞬だけ、完全に預けてくる。
「……あったかい」
ぽつりと。
無意識みたいに。
すぐに、ハッとする。
離れようとする。
「……悪い」
「別に」
でも、完全には離れない。
中途半端な距離。
「……ほんと、無理」
ユイが呟く。
「なにが」
「全部」
短い答え。
でも、それで十分。
「……あんたに会うとさ」
続ける。
「バランス崩れる」
正直な言葉。
初めてかもしれない。
ここまで言うの。
「……悪いな」
「……ほんとにね」
少しだけ笑う。
でも、すぐに消える。
「……でも」
続ける。
小さく。
「嫌じゃないのが、最悪」
その一言で、全部止まる。
時間が止まるみたいに。
「……」
「……」
何も言えない。
言葉が、意味を持たない。
ユイが、ゆっくり顔を上げる。
目が合う。
逃げない。
逃げられない。
そのまま、少しだけ近づく。
触れられる距離。
でも——
止まる。
「……ダメ」
自分に言い聞かせるみたいに。
「……今やったら、ほんとに壊れる」
はっきり言う。
さっきまでより、強い声。
理性が戻ってきてる。
「……そっか」
それしか言えない。
でも、分かる。
今は違う。
昨日とは。
「……帰って」
小さく言う。
でも、拒絶じゃない。
守るための距離。
「……ああ」
ゆっくり体を離す。
立ち上がる。
ドアに向かう。
開ける前に、一瞬だけ止まる。
「……無理すんな」
それだけ言う。
振り返らない。
言葉も待たない。
そのまま出る。
ドアを閉める。
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廊下に出る。
静かだ。
でも、さっきまでの空気が残ってる。
「……壊れる、か」
小さく呟く。
もう、半分壊れてる。
でも——
まだ戻れるラインにいる。
ギリギリ。
そのラインを、どっちに踏み越えるか。
「……面倒だな」
でも、もう分かってる。
どっちに行くかなんて。
とっくに決まってる。
それが、一番厄介な選択だとしても。




