11話「戻れないって分かってるのに」
やめたほうがいいって、分かってる。
最初から分かってた。
ああいう人に近づいたら、面倒なことになるって。
距離がバグるって。
仕事、やりづらくなるって。
全部、想定内。
——だったはずなのに。
「……なんで来るの」
あのとき聞いた言葉。
自分でも意味分かんなかった。
来てほしいのか、来てほしくないのか。
どっちも本音で、どっちも嘘。
ほんと、最悪。
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部屋の中。
荷物は、もうほとんどまとめてある。
ダンボールがいくつか。
生活感は、半分くらい消えてる。
こうすれば、楽になると思った。
物理的に距離を切れば、全部リセットできるって。
バカみたい。
そんなわけないのに。
分かってるのに。
「……」
スマホを見る。
何も来てない。
来るわけない。
あの人、そういうことしない。
追ってこない。
縛らない。
——そこが一番、やりづらい。
「……ほんと、ずるい」
小さく呟く。
自分の方が、よっぽどずるいのに。
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ピンポン。
インターホンが鳴る。
心臓が、一瞬だけ強く跳ねる。
分かってる。
誰かなんて。
「……」
出ない選択もできる。
そのまま無視して、全部終わりにすることもできる。
簡単。
すごく簡単。
でも——
足が動く。
勝手に。
ドアの前まで行ってる。
鍵に手をかける。
開ける。
やっぱり、あの人だった。
「……なに」
いつもの言い方。
少しだけ冷たく。
距離を保つための声。
「……引っ越すのか」
部屋の中を見て言う。
余計なことは聞かない。
核心だけ。
「……まあ」
曖昧に返す。
肯定も否定もしない。
逃げ道を残す。
いつも通り。
「……そっか」
それだけ。
引き止めない。
理由も聞かない。
軽い。
軽すぎる。
——それでいいはずなのに。
胸の奥が、少しだけざわつく。
「……もう会わない方がいいと思う」
自分から言う。
ちゃんと、切る。
ここで終わらせる。
それが一番楽。
分かってる。
「……そっか」
また、それだけ。
否定しない。
止めない。
責めない。
優しすぎる。
ほんとに。
「……」
おかしい。
これでいいはずなのに。
なんでこんなに——
「……でも」
続く声。
反射的に顔を上げる。
「いなくなるのは嫌だ」
それだけ。
それだけなのに。
逃げ道が、全部なくなる。
「……なにそれ」
笑う。
笑ってごまかす。
いつもみたいに。
「意味わかんない」
「分かんなくていい」
あっさり言う。
追い詰めない。
でも、逃がさない。
ほんとに、ずるい。
「……あんたさ」
言葉が出てくる。
止まらない。
「そういうの、一番困るんだけど」
「……悪い」
悪いと思ってない顔。
でも、嘘じゃない。
分かるから余計に厄介。
「……ほんと、無理」
小さく呟く。
頭では分かってる。
ここで離れないと、終わるって。
全部壊れるって。
仕事も、生活も、バランスも。
なのに——
足が動かない。
ドアを閉めるはずなのに。
距離を取るはずなのに。
「……なんで止めないの」
ぽつりと出る。
自分でも驚く。
そんなこと思ってたんだって。
「止めてほしいのか」
静かな声。
試すでもなく、ただ聞く。
「……」
答えられない。
どっちでもない。
どっちでもある。
ぐちゃぐちゃ。
「……分かんない」
正直に出る。
初めてかもしれない。
こんな言い方。
「……でも」
続く。
自分でも止められない。
「このまま行ったら、戻れないよ」
警告。
確認。
最後のライン。
「……いい」
即答。
迷いなし。
その一言で、全部崩れる。
「……ばか」
小さく言う。
ほんとに。
どっちがだよ。
逃げ道、残してたのに。
ちゃんと逃げられるようにしてたのに。
それ、全部潰してくる。
「……そっち行ったら」
自分でも分かってる。
これ、最後の確認。
「ほんとに、戻れないよ」
「いいって言ってるだろ」
少しだけ強い声。
でも、優しい。
逃げ場はくれないくせに、無理やりでもない。
最悪。
ほんとに。
「……」
もう、分かってる。
ここで一歩出たら終わり。
戻れない。
でも——
戻りたいって、思ってない。
それが一番まずい。
「……じゃあ、もう知らない」
小さく言う。
言い訳みたいに。
責任放棄みたいに。
でも、本当は——
選んでる。
自分で。
一歩、踏み出す。
距離がゼロになる。
逃げない。
もう、逃げない。
そのまま——
触れる。
キスする。
今度は、ちゃんと。
逃げないキス。
仕事でも、流れでもない。
ただ、自分の意思で。
数秒。
離れる。
でも、距離は戻さない。
「……これで終わりね」
そう言う。
でも、声は少し震えてる。
分かってる。
終わりじゃない。
始まりだって。
だからこそ、怖い。
「……逃げないよ、もう」
ぽつりと続ける。
自分に言い聞かせるみたいに。
あの人にじゃなくて。
自分に。
そのまま、少しだけ目を閉じる。
怖いけど。
でも——
嫌じゃない。
むしろ。
やっと、楽になった気がした。




