12話「戻れない側へ」
ドアが閉まる音が、やけに静かだった。
さっきまでいた場所が、急に遠くなる。
でも、体温だけは残ってる。
「……」
廊下に立ったまま、しばらく動けない。
分かってる。
今、越えた。
あのラインは、完全に。
戻れないやつ。
「……はあ」
小さく息を吐く。
でも、後悔はない。
むしろ——
変に、落ち着いてる。
理由は簡単だ。
ユイが、逃げなかったから。
いや——
逃げるのをやめたからか。
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次の日。
ドアを開ける。
タイミングが、また悪い。
隣のドアも同時に開く。
「……」
「……」
目が合う。
いつもなら逸らす。
でも——逸らさない。
ユイも、逸らさない。
「……おはよ」
「……うん」
短い。
でも、前と違う。
気まずさじゃない沈黙。
ただ、どうしていいか分からないだけの沈黙。
「……仕事?」
「行く」
「そっか」
それだけの会話。
なのに——
距離が近い。
物理じゃなくて、明らかに。
ユイが、一歩だけ近づく。
ほとんど無意識みたいに。
すぐに止まる。
気づいたみたいに。
「……」
「……」
そのまま数秒。
何も言わない。
でも、離れない。
昨日ならありえなかった距離。
ユイが、少しだけ息を吐く。
「……変な感じ」
「なにが」
「……全部」
小さく笑う。
でも、弱くない。
どこか開き直ってる。
「……だな」
それしか言えない。
でも、それで足りる。
ユイが、少しだけ手を動かす。
迷うみたいに。
それから——
軽く、触れる。
指先だけ。
すぐ離れる。
でも、それで十分。
「……じゃあ」
「……ああ」
そのまま、それぞれ歩き出す。
振り返らない。
でも——
もう、前とは違う。
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夜。
帰ると、廊下の電気がついている。
ユイが、壁にもたれている。
「……なにしてんだ」
「待ってた」
あっさり言う。
一瞬、言葉が詰まる。
「……なんで」
「……なんとなく」
視線を逸らす。
でも、逃げてない。
それだけで、十分分かる。
「……入る?」
少し迷ってから言う。
「うん」
即答。
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部屋の中。
昨日と同じ場所。
でも、空気は違う。
緊張してないわけじゃない。
でも、逃げようとしてない。
ユイが、ソファに座る。
前より少しだけ近い位置。
「……なに話す?」
「……分かんねえ」
「だよね」
小さく笑う。
それから、少し沈黙。
でも、苦じゃない。
ユイが、ゆっくりこっちを見る。
「……ね」
「ん」
「ほんとに、いいの」
静かな声。
確認。
まだ、不安は残ってる。
「……いい」
短く返す。
それだけでいい。
ユイが、少しだけ目を細める。
それから——
距離を詰める。
今度は迷わない。
自然に。
肩が触れる。
そのまま、少しだけ寄りかかる。
「……ほんと、ばか」
「お前もな」
「……うん」
素直に頷く。
それが、なんかおかしい。
ユイが、少しだけ顔を上げる。
目が合う。
今度は、止まらない。
そのまま——
キスする。
昨日より、少し長い。
でも、まだ不器用。
離れる。
「……これ、仕事じゃないね」
「当たり前だろ」
「……そっか」
少しだけ笑う。
そのまま、もう一度寄ってくる。
今度は自然に。
何も言わずに。
そのまま、時間がゆっくり流れる。
もう、戻らない。
戻る気もない。
それが、はっきりした夜だった。




