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8話「どうしたいの」

 それから数日。


 会話は、ほとんどなくなった。


 顔を合わせれば挨拶はする。


 それだけ。


 それ以上は続かない。


 続けない。


 どっちも、分かってるみたいに。


「……おはよ」


「……うん」


 短い。


 それで終わり。


 前なら、もう一言くらいはあった。


 今はない。


 距離は、確かに戻っている。


 ——形だけは。


---


 仕事中も、頭のどこかで引っかかる。


 戻したはずの距離。


 でも、全然戻ってない。


 むしろ、意識だけは前より近い。


「……意味わかんねえ」


 小さく呟く。


 分かってる。


 戻せるわけがない。


 あれを知ってしまって。


---


 夜。


 帰りが少し遅くなった。


 廊下の電気がついている。


 人影が見える。


 近づくと、それがユイだと分かる。


 ドアの前に立っている。


 鍵を持ったまま、動かない。


「……どうした」


 声をかける。


 ユイが、ゆっくりこっちを見る。


 少しだけ、驚いた顔。


「……別に」


「別にって顔じゃないだろ」


「……うるさい」


 いつもの返し。


 でも、力が弱い。


「開けないのか」


「……鍵、どっかいった」


「は?」


「多分、落とした」


 小さく言う。


 視線は床。


 明らかに焦ってる。


「探したのか」


「……さっきから」


「見つからない?」


「うん」


 短く頷く。


 そのまま、少しだけしゃがむ。


 もう一度探すみたいに。


 でも、動きが雑だ。


 集中できてない。


「……ちょっと貸せ」


 しゃがんで、周りを見る。


 数秒。


 すぐ見つかる。


「ここ」


「……え」


 ユイが顔を上げる。


 俺の手の中の鍵を見る。


「……なんで」


「普通に落ちてた」


「……気づかなかった」


 少しだけ笑う。


 でも、その笑いも弱い。


「……ありがと」


「別に」


 鍵を渡す。


 指先が、少しだけ触れる。


 一瞬だけ。


 それだけで、妙に意識する。


 ユイも、少しだけ止まる。


 でも、すぐに離れる。


 鍵を受け取って、ドアに向き直る。


 差し込む。


 回す。


 今度はちゃんと開く。


 そのまま中に入ろうとして——


 止まる。


「……なに」


 振り返らずに言う。


「……いや」


 言葉が出ない。


 本当は、言うつもりなんてなかった。


 でも——


「……ほんとに、それでいいのか」


 口に出ていた。


 第6話の、あの言葉。


 ユイが、完全に止まる。


 動かない。


 数秒。


 沈黙。


「……なにが」


 声が、少し低い。


「距離」


 それだけ言う。


 余計なことは足さない。


 足したら、多分逃げる。


「……戻したんでしょ」


「戻してない」


 即答だった。


 自分でも驚くくらい、迷いがない。


 ユイが、わずかに振り返る。


 ほんの少しだけ。


「……戻してるよ」


「形だけだろ」


「……それでいいって言ったじゃん」


「言ってない」


 言い切る。


 空気が、変わる。


 一気に。


 ユイが、ゆっくり振り返る。


 今度はちゃんと、こっちを見る。


「……じゃあなに」


 少し強い声。


「どうしたいの」


 踏み込んでくる。


 逃げ場がない。


 でも——


 逃げない。


「……分かんねえ」


 正直に言う。


「でも」


 続ける。


 止まらない。


「戻したくないのは分かる」


 その一言で、全部が止まる。


 ユイの表情が、変わる。


 ほんの一瞬。


 すぐに抑える。


 でも、見えた。


「……」


「……」


 沈黙。


 でも、さっきまでとは違う。


 逃げてない沈黙。


 向き合ってる沈黙。


 ユイが、わずかに息を吐く。


「……ずるい」


 小さく言う。


「なにが」


「そういうの」


 視線を逸らす。


 でも、完全には外さない。


 揺れてる。


「……じゃあ、どうすればいい」


 聞く。


 答えなんてないのは分かってる。


 でも、聞かずにはいられない。


 ユイが、少しだけ笑う。


 弱い笑い。


「……知らない」


「……だよな」


 それでもいい。


 それでも、さっきよりはマシだ。


 何も言わないより。


 何もなかったことにするより。


 ユイが、少しだけ近づく。


 一歩。


 また、あの距離。


 何度も来てるはずなのに、慣れない距離。


「……ほんとに」


 ぽつりと。


「戻れなくなるよ」


 前にも聞いた言葉。


 でも、今は違う。


 確認じゃない。


 警告でもない。


 ——ほとんど、許可に近い。


「……もう遅いだろ」


 自然に出る。


 ユイが、一瞬だけ止まる。


 そのあと——


 ほんの少しだけ、笑う。


 諦めたみたいに。


「……ばか」


 小さく言う。


 そのまま、ほんの少しだけ距離が縮まる。


 触れられる距離。


 いや——


 もう、触れている。


 指先が、軽く重なる。


 今度は、どっちも離さない。


 逃げない。


 数秒。


 そのまま。


 ユイが、ゆっくり目を閉じる。


 ほんの少しだけ、顔が近づく。


 呼吸が重なる。


 ——でも。


 止まる。


 本当に、ギリギリのところで。


「……やめとく」


 小さく言う。


 でも、声は震えてる。


 さっきまでより、ずっと。


「……なんで」


「……まだ、無理」


 正直な答え。


 初めてかもしれない。


 こんな言い方。


「……そっか」


 それ以上は言わない。


 言えない。


 でも、分かる。


 拒絶じゃない。


 ただ——


 まだ、足りないだけだ。


 ユイが、ゆっくり手を離す。


 でも、さっきより優しい。


 完全に切る感じじゃない。


「……じゃあね」


「ああ」


 ドアを開ける。


 中に入る。


 今度は、ちゃんと振り返る。


「……ありがと」


 小さく言う。


 何に対してかは、言わない。


 でも、分かる気がする。


「……別に」


 それだけ返す。


 ユイが、少しだけ笑う。


 今度は、少しだけ自然な笑い。


 そのまま、ドアが閉まる。


---


 一人、残る。


 でも——


 前とは違う。


 距離は、戻ってない。


 むしろ——


 はっきりした。


「……遅いっての」


 小さく呟く。


 でも、悪くない。


 この感じ。


 まだ足りない。


 でも、確実に進んでる。


 それが分かる。


 それだけで——


 十分だった。

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