7話「近いまま、遠い」
朝。
ドアを開ける前に、少しだけ止まる。
理由は分かってる。
昨日のこと。
あの距離。
あの空気。
全部、まだ残ってる。
「……はあ」
小さく息を吐いて、ドアを開ける。
廊下に出る。
——タイミングが悪い。
隣のドアが、ちょうど開くところだった。
「……」
「……」
目が合う。
一瞬だけ。
すぐに逸らす。
「……おはよ」
先に言ったのはユイだった。
でも、声がいつもより少しだけ低い。
「……おう」
短く返す。
それ以上、続かない。
沈黙。
距離は近い。
いつも通りのはずの距離。
なのに——
やけに遠い。
「……仕事?」
「うん」
「そっか」
それで終わる。
それ以上、何も出てこない。
会話が続かない。
続けようと思えば続けられる。
でも、どっちもやらない。
やらない方を選んでる。
ユイが、少しだけ視線を動かす。
こっちを見る。
すぐに逸らす。
その繰り返し。
「……じゃ」
「……うん」
ほとんど同時に言う。
タイミングが被る。
それだけで、妙に気まずい。
先にユイが歩き出す。
距離が離れる。
ほんの数歩。
それだけなのに、やけに遠い。
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その日一日、妙に集中できなかった。
理由は分かってる。
考えないようにしても、勝手に浮かぶ。
手の感触。
距離。
あのとき、止まった瞬間。
「……ちゃんとしなきゃ、か」
小さく呟いて、無理やり意識を戻す。
でも、すぐに戻る。
意味がない。
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夜。
帰ってきて、廊下に出る。
電気はついている。
でも、人の気配はない。
少しだけ、安心する。
少しだけ、残念に思う。
「……面倒だな」
自分でも分かってる。
矛盾してる。
でも、どうしようもない。
部屋に入ろうとして——
隣のドアが開く。
「……」
「……」
また、同じタイミング。
逃げ場がない。
ユイが出てくる。
目が合う。
今度は逸らさない。
でも、何も言わない。
「……」
「……」
沈黙。
昨日より、長い。
でも、耐えられないほどじゃない。
むしろ——
このままでもいい気がする。
そんな空気。
「……帰ってたんだ」
ユイが、ぽつりと言う。
「さっきな」
「そっか」
それだけ。
また、沈黙。
距離は、近い。
でも、動かない。
どっちも。
昨日なら、何かが起きてた距離。
でも今日は——何も起きない。
起こさない。
「……昨日のこと」
思わず、口に出る。
言うつもりはなかった。
ユイが、ほんの一瞬だけ止まる。
「……なに」
声が、少しだけ硬い。
「いや」
続けられない。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。
「……なんでもない」
「……そう」
短い返事。
でも、その中に少しだけ何かが混ざる。
期待か、警戒か。
分からない。
でも——
少しだけ、空気が揺れる。
ユイが、わずかに距離を詰める。
一歩。
ほとんど無意識みたいに。
すぐに止まる。
気づいたみたいに。
「……」
「……」
また、あの距離。
昨日と同じ。
でも、違う。
今日は——
どっちも動かない。
動けない。
ユイが、ほんの少しだけ息を吐く。
それから——
「……距離、戻そ」
小さく言う。
「……戻すって」
「そのまま」
曖昧な言い方。
でも、意味は分かる。
「……隣人に」
続けて言う。
それが、結論。
「……」
何も言えない。
否定も、肯定も。
どっちもできる。
でも、どっちも選べない。
「……ごめん」
ユイが、ぽつりと付け足す。
「なんで謝る」
「……分かんない」
少しだけ笑う。
弱い笑い方。
それでも、崩れない。
ギリギリで止まってる。
「……いいけど」
それしか言えない。
それ以上言ったら、多分壊れる。
何がかは分からないけど。
「……じゃあ」
「ああ」
短いやり取り。
ユイがドアに手をかける。
開ける。
中に入る直前。
「……」
一瞬だけ止まる。
振り返らない。
でも——
「……ほんとに、それでいいの?」
小さく、落とす。
独り言みたいに。
誰に向けたのか分からない。
そのまま、ドアが閉まる。
---
一人、残る。
静かだ。
昨日より、静かだ。
「……戻す、か」
呟く。
戻せるのか。
本当に。
あの距離を知ってしまって。
「……無理だろ」
すぐに答えが出る。
でも。
それでも——
戻すしかない。
今は。
そう思って、ドアを開ける。
部屋に入る。
閉める。
音が、やけに重い。
その重さが、少しだけ残った。




