6話「ちゃんとしてないとダメなのに」
違和感に気づいたのは、ほんの一瞬だった。
廊下で顔を合わせたとき。
「……」
「……なに」
いつも通りのやり取り。
のはずなのに、どこか遅い。
返事までの間が、ほんの少しだけ長い。
「いや、ぼーっとしてたから」
「してない」
即答。
でも、その声が少しだけ掠れている。
目の焦点も、わずかに合っていない気がした。
「……仕事帰りか」
「うん、多分」
「多分ってなんだよ」
「……分かんない」
小さく呟く。
そのまま、壁に肩を預ける。
力の抜け方が、いつもと違う。
「おい」
「なに」
「大丈夫か」
「大丈夫」
即答。
でも——
その直後、わずかに体が揺れる。
ほんの一瞬。
見逃すレベル。
でも、見えた。
「……」
考えるより先に、手が出る。
腕を軽く掴む。
支えるほどでもない力で。
「……」
ユイが、止まる。
そのまま数秒。
何も言わない。
拒まない。
ただ、そのまま立っている。
体温が、近い。
近すぎるわけじゃない。
でも、意識するには十分な距離。
「……大丈夫だって」
少し遅れて、ユイが言う。
その声は、さっきより小さい。
「そうは見えない」
「見間違い」
「それ便利だな」
軽く言うと、ユイが少しだけ笑う。
すぐに消える笑い。
そのまま、腕から体を離す。
自分から。
「……平気」
もう一度言う。
今度は、少しだけ強く。
「部屋、戻る」
「おう」
短く返す。
ユイはドアの方へ歩く。
途中で、ほんの少しだけ足元が揺れる。
それでも、止まらない。
ドアの前まで行って、鍵に手をかける。
回す。
少し失敗する。
「……」
やり直す。
今度は開く。
そのまま中に入ろうとして——
止まる。
「……なに」
振り返らずに言う。
「これ」
ポケットから取り出したペットボトルを差し出す。
さっきコンビニで買ったやつだ。
ユイが、少しだけ顔を動かす。
視線だけこっちに向ける。
「いらない」
「そうか」
あっさり引こうとする。
「……置いといて」
小さく言う。
ほとんど聞こえない声。
でも、ちゃんと聞こえる。
ドアの横に置く。
「ありがと」
「別に」
それ以上は言わない。
ユイは一歩、中に入る。
でも、ドアを閉めない。
中途半端に開いたまま。
「……」
「……」
妙な沈黙。
帰ればいい。
分かってる。
でも、動けない。
ユイも、動かない。
ただ、その場にいる。
「……ちゃんとしてないとダメなのに」
ぽつりと、落ちる。
小さい声。
独り言みたいに。
「……誰に」
思わず聞く。
一瞬だけ間が空く。
「……全部に」
それだけ。
それ以上は続かない。
聞けない。
聞いたら、多分崩れる。
何がかは分からないけど。
ユイが、少しだけ息を吐く。
それから——
「……なんでもない」
強制的に切る。
いつもの調子に戻すみたいに。
「気にしないで」
「……おう」
それしか言えない。
ユイが、ペットボトルを手に取る。
少しだけ握る。
すぐには飲まない。
ただ、持っている。
「……じゃ」
「ああ」
それだけのやり取り。
ドアが、ゆっくり閉まる。
今度は、ちゃんと閉まる。
---
廊下に一人残る。
静かだ。
さっきまでの空気が、少しだけ残っている。
「……ちゃんとしてないと、か」
小さく呟く。
何に対してなのか。
仕事か、生活か、それとも——
全部か。
「……面倒だな」
でも、それだけじゃない。
あの一瞬。
腕を掴んだとき。
拒まれなかった。
それどころか、少しだけ——
「……いや」
考えるのをやめる。
都合よく解釈すると、ろくなことにならない。
分かってる。
でも。
あの距離は、嘘じゃない。
そう思ってしまう。
それが、一番厄介だった。




