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4話「近づく理由のない距離」

 朝、ドアを開けた瞬間に後悔した。


「……さむ」


 思ったより空気が冷たい。


 適当に羽織ったパーカーのまま、ゴミ袋を持って廊下に出る。


 まだ人の気配は少ない時間——のはずだった。


 隣のドアが、同じタイミングで開く。


「……」


「……」


 沈黙。


 先に目に入ったのは、寝癖だった。


 跳ねた髪。

 やたら緩いTシャツ。

 片手で目元をこすりながら、ぼんやり立っている。


「……おはよ」


 間の抜けた声。


「……今何時」


「七時」


「……無理」


 即答だった。


 そのままドア枠に額をぶつけて、小さく「いて」と呟く。


 店で見ていた姿と、同一人物とは思えない。


「お前、朝弱いのか」


「人並み」


「弱いだろ」


「……うるさい」


 低い声で返して、ふらっと歩き出す。


 ゴミ袋を引きずるみたいに持っている。


 距離が近い。


 無防備すぎて、逆に意識する。


 視線を逸らして、先に階段へ向かう。


---


 戻ってきたとき、ユイは廊下の端で座り込んでいた。


「……なにしてんだ」


「充電切れ」


「人間の?」


「うん」


 真顔で言う。


 そのまま動かない。


 数秒見てから、ポケットの中の缶コーヒーに気づく。


 買っておいたやつだ。


「……ほら」


 差し出す。


 ユイが、少しだけ顔を上げる。


 視線が缶と俺を行き来する。


「いらない」


「そうか」


 あっさり引こうとすると、


「……そこ、置いといて」


 小さく言った。


 聞こえないふりもできる声量。


 でも、ちゃんと聞こえた。


 廊下の端に置く。


「ありがと」


「別に」


 それ以上は何も言わない。


 ユイは缶に手を伸ばして、少しだけ握る。


 すぐには飲まない。


 ただ、持っている。


 それだけなのに、なぜか印象に残る。


---


 昼間は仕事で頭を使い切って、余計なことを考える余裕はなかった。


 ——はずなのに。


 ふとした瞬間に、朝の光景が浮かぶ。


 あの無防備さ。


 店では絶対に見せない顔。


「……なんなんだよ」


 小さく呟いて、すぐに意識を戻す。


 関係ない。


 ただの隣人だ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


---


 夜。


 部屋に戻って、ベランダに出る。


 冷えた空気を吸い込む。


 静かだ。


 隣から、小さく音がした。


 引き戸が開く音。


 視線を向けると、ユイが出てきた。


 さっきよりはまともな格好。


 でも、どこか気の抜けた空気は変わらない。


「……また会うな」


「狭いからね」


 手すりにもたれて、外を見ている。


 煙が上がる。


 タバコ。


「吸うんだな」


「たまに」


 それ以上、続かない。


 でも、居心地が悪いわけでもない。


 ただ、静かに同じ空間にいる。


「……今日さ」


 ユイが口を開く。


「ん」


「なんか、うまくできなかった」


「仕事?」


「うん」


 短く答えて、少しだけ笑う。


 すぐに消える笑い。


「……こういうの、慣れてるはずなんだけど」


「何が」


「全部」


 曖昧な言い方。


 でも、分かる。


 距離とか、空気とか。


「……あんたのせい」


「は?」


「最近、変なんだよね」


 煙を吐く。


 視線は外。


「……距離、分かんなくなる」


 その言葉だけ、やけに残る。


「店だとさ、全部決まってるじゃん」


「まあな」


「でもここだと、ないから」


 ルールも、理由も。


「……やりづらい」


 そう言って、少しだけこっちを見る。


 すぐ逸らす。


 でも、その一瞬で分かる。


 迷ってる。


「……じゃあ、作ればいいだろ」


 思ったより先に言葉が出た。


「なにを」


「距離」


 自分でも曖昧だ。


 でも引けなかった。


 ユイが、少しだけ止まる。


「……どうやって」


「さあな」


「無責任」


 小さく笑う。


 でも、動かない。


 距離も変わらない。


 むしろ——少し近い。


「……試してみる?」


「なにを」


「距離」


 言いながら、一歩だけ近づく。


 自然に。


 無意識みたいに。


 気づいたときには、かなり近い。


 呼吸が分かる距離。


 何も言えない。


 離れる理由も、分からない。


 ユイが、ほんの一瞬だけ目を閉じる。


 それから——


「……無理」


 小さく言って、体を引く。


 一気に距離が離れる。


「……やっぱ無理」


「……」


「そういうの、やめて」


 少し強い声。


 でも、揺れてる。


「勘違いするから」


 それだけ言って、タバコを消す。


 視線は合わない。


 でも、分かる。


 本音はそこじゃない。


「……悪い」


「別に」


 短く返して、部屋に戻ろうとする。


 途中で、一瞬だけ止まる。


「……ほんと、やりづらい」


 小さく呟いて、そのまま中に入っていく。


---


 一人、残る。


 さっきまであった距離が、やけに鮮明に残っている。


 近かった。


 確実に。


 でも、触れてはいない。


 触れなかった。


「……どっちだよ」


 思わず呟く。


 近づきたいのか、離れたいのか。


 分からない。


 でも、多分——


 どっちもだ。


 だから、厄介なんだろう。


 夜の空気が、やけに冷たかった。

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