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3話「面倒な隣人と静かな夜」

その夜は、やけに静かだった。


 隣に人がいるはずなのに、生活音はほとんど聞こえない。


 壁一枚隔てただけの距離が、妙に遠く感じる。


 ——気にするな。


 そう思っても、意識がそっちに向く。


 さっきのやり取りが、頭から離れない。


「……普通の隣人、ね」


 呟いて、ベッドに横になる。


 天井を見上げたまま、しばらく動かない。


 眠れる気は、しなかった。


---


 どれくらい時間が経ったのか分からない頃。


 不意に、音がした。


 カチ、という軽い音。


 続けて、何かが落ちるような鈍い音。


 隣からだ。


 反射的に体を起こす。


 数秒、様子をうかがう。


 それ以上、音はしない。


 ——気のせいか?


 そう思って横になりかけて、やめる。


 妙に引っかかる。


 理由はない。ただの直感だ。


「……」


 少しだけ迷ってから、立ち上がる。


 玄関に向かい、ドアを開けた。


 廊下は暗い。


 隣のドアの前まで歩いて、手を上げる。


 ノックしようとして——止まる。


 ここで何をする気だ。


 隣人として?

 それとも——


「……いや」


 小さく息を吐いて、結局、軽く二回だけ叩いた。


 返事はない。


 もう一度、少し強めに叩く。


「……ユイ?」


 名前を呼んでから、少し後悔する。


 ここでは“そういうの”じゃないはずなのに。


 数秒遅れて、内側で何かが動く気配。


 鍵の音。


 ドアが、ほんの少しだけ開いた。


 隙間から覗いた顔は——


「……なに」


 低い声。


 でも、どこかぼんやりしている。


「さっき、音したけど」


「……ああ」


 間があって、ドアがもう少し開く。


 部屋着のまま。

 髪も乱れていて、完全にオフの顔。


「ブレーカー落ちただけ」


「ブレーカー?」


「うん。ドライヤーと電子レンジ一緒に使ったら、普通に落ちた」


「……子供か」


「うるさい」


 少しだけ、口元が緩む。


 そのままドアの縁にもたれて、こっちを見る。


 距離が近い。


 思ってたより、近い。


「で、それだけ?」


「いや……暗いままなのかと思って」


「今上げた」


「そっか」


 会話が切れる。


 用事は、それで終わりだ。


 終わりのはずなのに、なぜかそのまま立っている。


 向こうも、ドアを閉めない。


 数秒、無言。


 妙な間。


 ユイが、ふっとこちらに一歩近づく。


 そのまま、少しだけ顔を寄せる。


「……なに」


「いや」


「なんか言いたいことあるなら言えば」


「別に」


 距離が近い。


 意識しない方が無理な距離。


 でも、触れない。


 触れられない。


 理由がないから。


 ユイが、一瞬だけ止まる。


 それから、ほんのわずかに視線を逸らした。


「……ほんと、変」


「どっちが」


「両方」


 そう言って、小さく息を吐く。


 その仕草が、やけに自然で。


 店で見たことのないものだった。


「……寝ろよ」


 とっさに出た言葉だった。


「は?」


「さっき、ぼーっとしてたし」


「してない」


「してた」


「してないって」


 軽く言い返してから、少しだけ間が空く。


 ユイが、髪をいじる。


 考えるときの癖みたいに。


「……まあ、ちょっとだけ」


 小さく認める。


 その声が、さっきより少し低い。


「だろ」


「だからって、わざわざ来る?」


「……気になっただけ」


「なにそれ」


 呆れたように言って、でも完全には否定しない。


 また、少しだけ無言。


 距離は、さっきと変わらない。


 近いまま。


「……あのさ」


「ん?」


「こういうの」


 一瞬、言葉を探すように止まる。


「……やめた方がいいと思う」


「こういうの?」


「様子見に来るやつ」


「隣人だろ」


「だから面倒なんでしょ」


 はっきり言われて、言葉に詰まる。


 その通りだ。


 でも——


「……それでも、来た」


 自分でも意外なくらい、素直に出た。


 ユイが一瞬だけ、固まる。


 視線が、こっちに戻る。


 何か言いかけて——やめる。


「……ほんと、意味わかんない」


 小さく吐き出して、体を引いた。


 距離が、少しだけ離れる。


「もういい。寝る」


「おう」


「……おやすみ」


 言いながら、少しだけ目を逸らす。


「ああ。おやすみ」


 ドアが閉まる。


 今度は、さっきより少しだけゆっくり。


---


 部屋に戻る。


 さっきまでと同じはずの空間。


 でも、少しだけ違う気がする。


 ベッドに座って、息を吐く。


「……なんなんだよ」


 分からない。


 ただ一つ分かるのは——


 あの距離は、もう“客と嬢”のものじゃない。


 だからといって、他の何かでもない。


 中途半端で、曖昧で。


 一番、扱いに困るやつだ。


「……面倒だな」


 呟いて、ベッドに倒れ込む。


 さっきより、少しだけ眠れそうだった。

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