2話「隣人は指名客」
「……ほんと、最悪」
ドアを閉めた瞬間、背中から力が抜けた。
そのまま、しばらく動けない。
心臓が、まだうるさい。
——なんで。
なんで、よりにもよって。
壁一枚向こう。
ついさっきまで“客”だった男。
それが、隣人。
「……ありえないでしょ」
誰に言うでもなく、吐き出す。
靴も脱がないまま、部屋の中を見渡す。
開けっぱなしの段ボール。
適当に置いたままの服。
生活感が、そのまま散らばってる。
——見られた。
さっきの自分。
あの部屋の中じゃない、“こっち側”。
「……やだ」
小さく呟いて、ようやく靴を脱ぐ。
床に座り込んで、髪に指を通した。
落ち着かない。
こういうの、慣れてるはずなのに。
距離なんて、いくらでも詰めてきた。
触れることだって、何度もやってきた。
なのに。
さっきの数秒の方が、よっぽどきつい。
何もしてないのに。
「……なんで、あんな顔すんの」
思い出す。
ドアの前で、こっちを見てた顔。
店で見る顔とは、違った。
欲しいものを探してるわけでも、満たされてるわけでもない。
ただ、戸惑ってるだけの顔。
——ああいうの、やめてほしい。
こっちが困る。
“客”なら、簡単なのに。
どうすればいいか、全部分かってる。
何を言えばいいかも、どこまで近づけばいいかも。
でも。
隣人なんて、知らない。
「……普通の隣人、ね」
自分で言った言葉を、繰り返す。
あれは線引きだ。
ああ言わないと、たぶん崩れる。
何が、とは考えない。
考えたら終わる気がする。
立ち上がって、冷蔵庫を開ける。
中身はほとんどない。
適当に買った甘いものが一つ。
それを手に取って、ソファに沈み込む。
一口かじる。
甘い。
やけに甘い。
「……別に、気にする必要ないし」
ただの客。
たまたま隣に住んだだけ。
それだけの話。
なのに。
頭のどこかで、さっきの距離を思い出してる。
近くて。
でも、触れなかった距離。
触れなかったんじゃない。
触れなかった。
「……意味わかんない」
小さく笑って、すぐに消える。
ああいうのは、仕事じゃないとダメだ。
理由がないと、動けない。
逆に言えば、理由さえあれば、なんだってできる。
それが自分だ。
——だったはずなのに。
「……優しいの、ほんと無理」
ぽつりと漏れる。
あの男の、何でもない顔。
何も求めてこない感じ。
ああいうのが、一番困る。
線が引けない。
役割で処理できない。
だから。
「……関わらないのが、一番」
そう決めて、残りの甘いものを口に入れる。
味なんて、もうよく分からない。
壁の向こうは、静かだった。
生活音も、何も聞こえない。
それなのに。
さっきより、距離が近い気がする。
「……ほんと、やめてほしい」
誰に向けたのか分からない言葉が、部屋に落ちた。
返事はない。
あるわけがない。
ただ——
少しだけ、落ち着かない夜だった。




