1話「客と嬢のまま、隣人になった」
色斑にじみと申します。
AM6:00更新予定
感想、レビューお待ちしてます。
「……こういうの、慣れてるはずなんだけどな」
目の前で笑う彼女は、今日も完璧だった。
声のトーンも、距離も、触れ方も。
どこにも無駄がなくて、どこにも引っかかりがない。
指先が、腕に触れる。
ほんのわずか。
でも、意識を持っていかれるには十分な距離。
軽いはずなのに、なぜか残る。
「どうしたの?」
首をかしげる。
その動きに合わせて、髪が肩に落ちる。
すぐ近くで、柔らかく揺れる。
近い。
近すぎるわけじゃないのに、近いと思わせる距離。
「いや、なんでもない」
「ふーん。変なの」
くすっと笑って、もう一歩だけ距離が詰まる。
今度は、はっきりと分かる。
体温。
服越しに伝わる、わずかな熱。
それを、避けない自分。
避けないことに、慣れている自分。
——これが“普通”になってるのが、少し気持ち悪い。
でも。
同時に、安心する。
この距離は、決まっている。
踏み込まれることもなければ、踏み込みすぎることもない。
全部、“そういうふうにできている”。
「ね、今日ちょっと疲れてる?」
少しだけ顔を覗き込まれる。
視線が近い。
呼吸の間合いが、重なるくらい。
「……そう見えるか?」
「うん。なんとなく」
その“なんとなく”で、どこまで見てるのか分からない。
でも、たぶん——見ていない。
見ているふりをしているだけだ。
それでいい。
それがいい。
「まあ、いつも通りだよ」
「そっか。じゃあ、今日はゆっくりしよ?」
「ああ」
短く答えると、彼女は少しだけ目を細めた。
その表情も、たぶん用意されたものだ。
そう思うと、楽になる。
何も考えなくていい。
ただ、この距離に身を置いていればいい。
触れられても、それ以上はない。
求めなくていいし、求められない。
——安全だ。
だから。
ほんの一瞬、指先が絡むように触れても。
それを“意味のあるもの”として考えなくていい。
そういう場所だ。
そういう時間だ。
---
店を出ると、夜の空気がやけに冷たかった。
さっきまでの熱が、一気に引いていく。
腕に残っていた感覚も、少しずつ消えていく。
……はずなのに。
完全には、消えない。
ポケットに手を突っ込んで、指先を握る。
「……くだらないな」
自分で自分に言い聞かせるみたいに呟く。
あれは、ただの仕事だ。
誰にでもやってること。
そこに意味なんてない。
意味を持たせる方が、間違ってる。
分かってる。
分かってるのに——
さっきの距離だけが、妙に残る。
---
アパートの階段を上がると、見慣れない段ボールが一つ、廊下の端に置かれていた。
誰か、越してきたらしい。
こんな時間に。
珍しいな、と思いながら、自分の部屋の前まで歩く。
鍵を取り出そうとしたとき。
隣のドアが、開いた。
「——あ」
聞き覚えのある声。
反射的に顔を上げる。
「……え?」
そこにいたのは。
さっきまで、すぐ近くにいたはずの女。
ユイだった。
部屋着のまま。
髪も少し乱れていて、化粧もほとんどしていない。
さっきまでの距離とは、まるで違うはずなのに。
——近い、と思った。
さっき触れた温度が、まだ残っているみたいに。
ユイが、一瞬だけ固まる。
その顔は、さっきの“完璧な顔”じゃない。
何も作ってない、素の表情。
「……なんで」
思わず出る。
「それ、こっちのセリフ」
低い声。
少しだけ、距離を取る動き。
さっきとは逆だ。
触れられる距離を、自分から外すみたいに。
その違いが、やけに鮮明で。
「……ここ、住むのか」
「見れば分かるでしょ」
「まあ、そうだけど」
会話が続かない。
さっきまでなら、いくらでも続けられたのに。
今は、距離の取り方が分からない。
近づいていいのか、離れるべきか。
どっちも、違う気がする。
ユイが一度だけこっちを見て、すぐに目を逸らす。
さっきとは違う。
視線を合わせない。
「……あのさ」
「ん?」
「ここでは——」
一瞬の間。
言葉を選んでいるのが分かる。
「普通の隣人だから」
はっきりした声。
でも、その直前にほんの少しだけ迷いがあった。
「……そうか」
「うん」
それだけ言って、彼女はドアの方へ体を向ける。
逃げるみたいに。
でも、完全に閉める前に、一瞬だけ止まる。
「……さっきのことは、忘れて」
「どっちの」
「全部」
少し強い口調。
ドアが閉まる。
---
廊下に一人残る。
さっきまで触れていた距離。
今は、壁一枚。
それだけの差のはずなのに。
「……一番、面倒な距離だろ」
小さく呟く。
さっきより、はっきり分かる。
あの距離は、“仕事”だった。
でも今は違う。
同じ相手なのに、同じ距離が取れない。
触れられない。
触れたら、意味が変わる。
——だから、面倒なんだ。
最後まで読んで頂きありがとうございます!




