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3章3話:戻らない感覚

 店の廊下。


 いつもの匂い。


 いつもの照明。


 何も変わってない。


 はずなのに——


「……」


 足が、少し重い。


---


「ユイさん、、次お願いします」


 スタッフの声。


「……はい」


 返す。


 声は普通。


 作れてる。


---


 鏡の前。


 軽く髪を整える。


 リップを直す。


 笑顔を作る。


 完璧。


 問題ない。


 はず。


---


「……」


 深呼吸。


 一回。


 それで、切り替える。


---


 部屋のドアを開ける。


---


「初めまして、ユイです」


 笑う。


 角度も、声も、いつも通り。


---


 客は四十代くらい。


 落ち着いたタイプ。


 こういうのは、やりやすい。


 はず。


---


「よろしく」


 短い返事。


 目線が、少しだけ鋭い。


---


「……」


 距離を詰める。


 いつものペース。


 様子を見る。


 呼吸、視線、手の動き。


 全部読む。


---


 できる。


 まだ、できる。


---


「……」


 触れる。


 反応は普通。


 問題ない。


---


 なのに——


---


 入ってこない。


---


「……」


 スイッチが入らない。


 前なら、ここで切り替わってた。


 仕事の自分。


 完全に別の感覚。


---


 今は——


---


 どっちでもない。


---


「……ね」


 客が言う。


---


「はい?」


---


「今日、固くない?」


---


 また、それ。


---


「そんなことないですよ」


 笑う。


 返す。


 でも——


 中がついてこない。


---


「……」


 触れられる。


 普通の強さ。


 普通の距離。


---


 なのに。


---


「……っ」


 一瞬、体が強張る。


---


 浮かぶ。


---


 あの部屋。


 あの距離。


 あの触れ方。


---


「……」


 違う。


 違うのに。


---


 区別がつかない。


---


「……どうした?」


 客の声。


---


「いえ、大丈夫です」


 即答。


 でも——遅い。


---


「……」


 空気が、少し変わる。


---


「……なんかさ」


 客が言う。


 少しだけ距離を取る。


---


「無理してない?」


---


 核心に近い。


---


「してないですよ」


 繰り返す。


---


「……」


---


 その瞬間。


 触れられた場所が、妙にリアルになる。


---


 “仕事じゃない方”の感覚。


---


「……っ」


 呼吸がズレる。


---


「……なに今」


 客が言う。


 笑ってない。


---


「え?」


---


「今、変な顔した」


---


 来た。


---


「してないですよ」


---


「したよ」


---


「……」


---


 否定しきれない。


---


「……」


---


 頭が回らない。


---


 どう戻す?


 どう誤魔化す?


---


 分かってるはずなのに。


---


 出てこない。


---


「……もういいや」


 客が言う。


 少しだけ苛立ち。


---


「今日はハズレだな」


---


 その一言。


---


 前と同じ。


---


 でも——


---


 重さが違う。


---


「……すみません」


 出る。


 反射で。


---


 でも——遅い。


---


 全部、遅い。


---


 客が立ち上がる。


 完全に冷めた顔。


---


 ドアに向かう。


---


「……」


---


 止めない。


 止められない。


---


 ドアが閉まる。


---


 音が、大きい。


---


「……」


---


 一人。


---


 静か。


---


 でも——


---


 前と違う。


---


 焦りじゃない。


---


 もっと、嫌なやつ。


---


「……」


---


 座る。


---


 手を見る。


---


 震えてない。


---


 逆に、何もない。


---


「……」


---


 空っぽ。


---


「……なにこれ」


 小さく言う。


---


 分かってる。


---


 原因。


---


 でも——


---


 前と違う。


---


 “戻せる感じ”が、ない。


---


「……」


---


 頭に浮かぶのは。


---


 あいつ。


---


 あの距離。


---


 あの空気。


---


「……」


---


 でも。


---


 今は、それも遠い。


---


 どっちにも戻れない。


---


「……最悪」


---


 呟く。


---


 そのとき。


---


 ドアがノックされる。


---


「ユイさん、大丈夫ですか?」


 スタッフの声。


---


「……はい」


 返す。


 普通の声。


---


「相性もあるとは思うけど、お客さん怒らせちゃマズいよ」


---


「……すみません」


---


「最近多いよね」


---


 軽い言葉。


 でも——


 重い。


---


「……調子戻してね」


---


「……はい」


---


 足音が遠ざかる。


---


「……」


---


 一人。


---


 完全に一人。


---


「……」


---


 気づく。


---


 前は。


---


 崩れても。


---


 戻る場所があった。


---


 あの部屋。


---


 あの距離。


---


 あいつ。


---


「……」


---


 今は。


---


 それも、うまく使えない。


---


 頼れない。


---


 頼りたくない。


---


 でも——


---


「……足りない」


---


 小さく、漏れる。


---


 その瞬間。


---


 初めて、自覚する。


---


 自分がどれだけ——


---


 あの関係に、寄ってたか。


---


「……」


---


 笑う。


---


 でも、全然笑えない。


---


「……ほんと、終わってる」


---


 ぽつりと。


---


 戻れない。


---


 仕事にも。


 前の自分にも。


---


 そして——


---


 あの距離にも。


---


 全部。


---


 中途半端なまま、壊れていた。

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