2章2話:うまくできない理由
店の空気は、いつも通りだった。
照明も、音楽も、匂いも。
全部、変わってない。
なのに——
「……」
なんか、噛み合わない。
自分の中だけが、少しズレてる感じ。
「ユイさん、次お願いします」
スタッフの声。
「はーい」
反射みたいに返す。
声はいつも通り。
多分、顔も。
鏡で確認したとき、ちゃんと作れてた。
店の顔。
完璧なやつ。
問題ない。
はず。
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部屋に入る。
客がいる。
初めての顔。
年齢は三十代くらい。
普通。
よくいるタイプ。
「初めまして、ユイです」
笑う。
角度も、声のトーンも、完璧。
「よろしくね」
いつも通りの距離感。
近すぎず、遠すぎず。
相手の温度を測る。
呼吸、視線、声の速さ。
全部読む。
それが仕事。
できるはず。
できてたはず。
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「……」
なのに。
少しだけ、違う。
相手の手が、触れてくる。
いつも通り。
問題ない。
でも——
反応が、遅れる。
「……どうしたの?」
客が言う。
「え?」
「なんか、固くない?」
笑いながら。
軽い指摘。
「そんなことないですよ」
すぐに返す。
笑顔も崩さない。
でも——
内側が、少しだけ冷える。
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触れる。
距離を詰める。
いつもなら、ここでスイッチが入る。
仕事の自分。
自然に切り替わる。
感覚を切り分ける。
“これは仕事”って。
それで全部うまくいってた。
なのに——
「……」
切り替わらない。
中途半端。
どっちでもない。
曖昧なまま。
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客の手が、強くなる。
少しだけ。
普通の範囲。
でも——
妙に気になる。
「……ね」
「はい?」
「今日、元気ない?」
また言われる。
笑いながら。
でも、少しだけ本気。
「そんなことないですよ」
繰り返す。
言葉は同じ。
でも——
自分で分かる。
説得力がない。
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「……」
頭の中に、浮かぶ。
朝のこと。
あの部屋。
体温。
声。
距離。
「……っ」
一瞬だけ、呼吸が止まる。
すぐに戻す。
顔は崩さない。
崩せない。
でも——
感覚が混ざる。
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“こっち”の触れ方と。
“あっち”の触れ方。
違うはずなのに。
同じになる。
区別が、曖昧になる。
「……」
やばい。
これ、やばい。
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「ほんとに大丈夫?」
客の声。
少しだけ近い。
「……大丈夫です」
言う。
でも——
その瞬間。
触れられた場所が、妙にリアルになる。
反応してしまう。
仕事じゃない方の反応。
「……っ」
体が、一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
でも——
致命的。
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「……なに今」
客が言う。
笑ってない。
「え?」
「今、嫌そうな顔したよね」
空気が、少し変わる。
「してないですよ」
即答。
でも——
遅い。
もう、ズレてる。
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「……なんかさ」
客が、少し距離を取る。
「プロっぽくないよね、今日」
はっきり言われた。
刺さる。
まっすぐ。
「……すみません」
反射で出る。
でも、遅い。
遅すぎる。
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頭が、うまく回らない。
どう戻す?
どう立て直す?
分かってるはずなのに——
出てこない。
「……もういいわ」
客が立ち上がる。
完全に冷めた顔。
「今日は外れだな」
そのままドアに向かう。
「……お金は?」
スタッフに確認する声。
もう、こっち見てない。
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ドアが閉まる。
音が、やけに大きい。
「……」
部屋に一人。
静か。
でも——
中はぐちゃぐちゃ。
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「……はあ」
小さく息を吐く。
座る。
力が抜ける。
手を見る。
少しだけ震えてる。
「……なにこれ」
自分に言う。
分かってる。
原因。
でも——
認めたくない。
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頭に浮かぶのは、あの部屋。
あの距離。
あの時間。
「……」
ぐちゃぐちゃになる。
分けてたはずのものが。
全部、混ざる。
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「……最悪」
小さく呟く。
笑う。
でも、全然笑えてない。
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ドアがノックされる。
「ユイさん、大丈夫ですか?」
スタッフの声。
「……はい」
反射で返す。
いつもの声。
でも——
少しだけ、遅い。
「さっきのお客さん、ちょっと怒ってたよ」
「……すみません」
「珍しいね」
その一言。
軽い。
でも——
重い。
「ユイさんなら大丈夫でしょ」
続ける。
何気ないフォロー。
でも——
プレッシャーになる。
「……はい」
短く返す。
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一人になる。
もう一度。
「……」
さっきより、静か。
でも——
逃げられない。
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分かってる。
原因。
あいつ。
あの距離。
あの関係。
「……」
でも——
やめるって選択肢は、出てこない。
出てこない時点で、もうダメ。
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「……どうすんの、これ」
ぽつりと呟く。
答えはない。
でも——
確実に一つだけ言える。
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もう、前みたいにはできない。
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それだけは、はっきりしていた。




