16話「逃げ場のない選択」
朝。
違和感は、最初からあった。
ドアを開ける。
隣は静か。
気配がない。
「……」
昨日の空気が、まだ残っているはずなのに。
妙に、薄い。
嫌な感じ。
はっきりしないけど、確実にある。
---
昼過ぎ。
知らない番号から電話が来た。
普段なら出ない。
でも——なぜか、出た。
「……もしもし」
『あー、ユイと一緒にいる男だよな?』
一瞬で分かる。
昨日の声。
あの男。
「……なんだ」
『話早くて助かるわ』
軽い口調。
でも、内容は軽くない。
『あいつ、連絡つかねえんだよ』
「……」
『逃げてんのか知らねえけどさ』
少しだけ笑う。
嫌な笑い方。
『困るんだよね、こっちも』
「……どこだ」
口に出ていた。
考えるより先に。
電話の向こうが一瞬止まる。
『お、来る気?』
「いいから言え」
少し強く言う。
間が空く。
それから——
『駅裏のビル、三階』
短く言う。
『一人で来いよ』
通話が切れる。
---
最悪だな、と思う。
でも、足は止まらない。
上着を掴んで、外に出る。
---
場所はすぐ分かった。
古い雑居ビル。
人通りが少ない。
入口の空気が、もう良くない。
「……」
階段を上がる。
三階。
ドアの前で、一瞬だけ止まる。
でも——迷わない。
開ける。
---
中。
狭い部屋。
煙草の匂い。
奥に、あの男。
そして——
「……」
ユイがいる。
椅子に座らされている。
腕は自由。
でも、動いていない。
目が、こっちを見る。
一瞬だけ、大きく揺れる。
「……なんで来るの」
小さく言う。
でも——今回は違う。
明確に、来てほしくなかった顔。
「呼ばれたからな」
短く返す。
男が笑う。
「ほんと来たじゃん」
軽く言う。
「物好きだな」
「……で」
無視する。
「用はなんだ」
男の目が少し細くなる。
「単刀直入に言うわ」
指でサインを作る。
「金」
「……」
「期限、今日」
あっさり言う。
ユイが、目を伏せる。
「……言ってなかったでしょ」
小さく呟く。
「延ばしてやってたんだよ」
男が言う。
「でもさ、もう限界」
笑う。
「こっちも仕事なんで」
その言い方で、全部分かる。
まともな話じゃない。
「……いくらだ」
聞く。
ユイが顔を上げる。
「……やめて」
「いいから」
遮る。
今はそれしかない。
男が、少しだけ考える。
それから——
「……1千万」
軽く言う。
数字だけが、妙に重い。
「……」
一瞬、思考が止まる。
現実感がない。
でも——
ユイの顔で、現実に戻る。
「……無理でしょ」
ユイが言う。
自嘲気味に。
「だから言ったじゃん」
少しだけ笑う。
「関わんない方がいいって」
その言い方。
完全に、突き放してる。
でも——
目は違う。
少しだけ、揺れてる。
「……払う」
口に出す。
自分でも分かってる。
無茶だって。
でも——
止まらない。
「は?」
男が笑う。
「お前が?」
「……ああ」
ユイが、完全にこっちを見る。
「……やめて」
今度は強い声。
「そんなの、意味ない」
「あるだろ」
「ない」
言い切る。
初めて見る強さ。
「……これ、あたしの問題だから」
はっきり言う。
境界線。
最後のライン。
「……一人で抱えるなよ」
思わず言う。
ユイが、少しだけ目を見開く。
「……抱えてるわけじゃない」
「抱えてるだろ」
「違う」
すぐに否定する。
でも——
声が揺れてる。
「……選んだだけ」
小さく言う。
「自分で」
それが、一番厄介。
逃げじゃない。
責任として抱えてる。
だからこそ——重い。
「……時間やるよ」
男が口を挟む。
「今日中な」
立ち上がる。
「それ以上は待たねえ」
ユイを見る。
「分かってるよな?」
「……うん」
小さく頷く。
男が、こっちを見る。
「じゃあ、仲良く考えな」
笑って、部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
---
静かになる。
さっきより、ずっと重い静寂。
「……」
「……」
ユイが、ゆっくり立ち上がる。
こっちを見ない。
「……帰ろ」
ぽつりと言う。
何もなかったみたいに。
「……おい」
「なに」
振り返る。
顔は、もう整ってる。
店の顔に近い。
でも——
少しだけ崩れてる。
「……どうすんだよ」
聞く。
答えなんて分かってる。
でも、聞かずにいられない。
「……どうもしない」
あっさり言う。
「払うだけ」
「どうやって」
「……なんとかする」
曖昧な答え。
でも、決めてる顔。
「……無理だろ」
「無理じゃない」
即答。
その目が、少しだけ強い。
「……無理でもやるの」
続ける。
はっきりと。
「それしかないから」
逃げない。
完全に。
「……」
言葉が出ない。
止めたい。
でも——
止める資格がない。
それが分かる。
「……あんたは関係ない」
ユイが言う。
静かに。
でも、線を引く声。
「ここから先は」
はっきりと。
「入ってこないで」
それが——
一番きつい。
---
外に出る。
夕方の光。
現実感が薄い。
ユイが、少しだけ先を歩く。
距離が、少しだけ空く。
でも——
完全には離れない。
「……ね」
ユイが、前を向いたまま言う。
「ん」
「……ほんとはさ」
少しだけ間。
「来てほしくなかった」
小さく言う。
「……でも」
続ける。
「来てくれて、ちょっとだけ安心した」
正直すぎる言葉。
振り返らないまま。
「……そっか」
それしか言えない。
でも——
それでいい気がした。
---
境界線は、はっきりした。
越えた場所と。
まだ踏み込めない場所。
その両方が、目の前にある。
あとは——
どっちを選ぶかだけだった。




