14話「境界線の外側」
その日は、最初から違和感があった。
朝。
ドアを開けても、ユイがいない。
珍しくはない。
でも——妙に引っかかる。
「……」
理由は分からない。
でも、嫌な感じだけが残る。
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夜。
帰りが遅くなった。
廊下は暗い。
ユイの部屋も、明かりがついていない。
「……まだか」
スマホを見る。
連絡はない。
そもそも、普段からやり取りは少ない。
だから、これが普通。
普通のはずなのに——
落ち着かない。
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0時を過ぎた頃。
外で、物音がする。
ドアの向こう。
廊下じゃない。
建物の入口付近。
少し荒い音。
誰かの声。
「……」
嫌な予感が、はっきりする。
ドアを開ける。
廊下を抜けて、階段を降りる。
声が近づく。
男の声。
荒い。
「だからさ、無視すんなって言ってんだろ」
低くて、苛立った声。
それと——
もう一つ。
「……やめて」
小さい声。
でも、聞き間違えるはずがない。
ユイだ。
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外に出る。
街灯の下。
ユイと、男が向かい合っている。
距離が近い。
近すぎる。
男が、ユイの腕を掴んでいる。
「……おい」
声をかける。
男がこっちを見る。
「あ?」
明らかに機嫌が悪い。
「なんだお前」
「離せ」
短く言う。
余計なことは言わない。
それだけでいい。
「は?」
男が笑う。
嫌な笑い方。
「関係ねえだろ」
「ある」
即答。
自分でも驚くくらい、迷いがない。
ユイが、こっちを見る。
目が揺れてる。
驚きと——
少しだけ、焦り。
「……いいから」
ユイが小さく言う。
「行って」
明らかに、関わらせたくない声。
「無理だな」
そのまま返す。
視線は外さない。
男から。
「……チッ」
舌打ち。
腕を掴む力が強くなる。
ユイが、少し顔をしかめる。
「金の話してんだよ」
男が言う。
やっぱり、そういうやつだ。
「無視してんじゃねえよ」
「……後で払うって言ってるでしょ」
ユイの声。
少しだけ震えてる。
初めて見る顔。
仕事でも、普段でもない顔。
「後で後でって、いつだよ」
「……」
「こっちは待ってやってんだぞ?」
腕を引く。
ユイの体が少しよろける。
「……やめろ」
一歩踏み込む。
距離を詰める。
「だからなんだよお前」
男が睨む。
でも——引かない。
こっちも。
「関係あるって言ってんだろ」
低く言う。
さっきより少し強く。
ユイが、少しだけ息を止めるのが分かる。
「……彼氏か?」
男が笑う。
「……違う」
ユイが即座に言う。
反射みたいに。
一瞬だけ、胸が引っかかる。
でも——今はどうでもいい。
「どっちでもいいだろ」
代わりに言う。
ユイが、少しだけこっちを見る。
驚いたみたいに。
「離せ」
もう一度言う。
男が少し考える。
それから——
舌打ちして、手を離す。
「……チッ、めんどくせえ」
少し距離を取る。
でも、まだ帰らない。
「金は払えよ」
指を差す。
「逃げんなよ」
「……分かってる」
ユイが答える。
男が、もう一度こっちを見る。
値踏みするみたいに。
それから、背を向けて去る。
足音が遠ざかる。
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静かになる。
急に。
「……」
「……」
誰も喋らない。
ユイが、その場に立ったまま動かない。
「……大丈夫か」
近づく。
顔を見る。
少しだけ青い。
「……なんで来るの」
小さく言う。
「たまたま」
「……嘘」
すぐに返される。
「……」
「……来なくてよかったのに」
視線を逸らす。
でも、声は弱い。
「無理だろ」
短く言う。
それだけ。
ユイが、少しだけ息を吐く。
「……見られたくなかった」
初めて出る本音。
「……こういうの」
続ける。
「……そっか」
それしか言えない。
でも、目は逸らさない。
逸らしたら、多分終わる。
「……引くでしょ」
ユイが言う。
自嘲みたいに。
「借金あって、変なやつに絡まれて」
「……別に」
即答。
ユイが、少しだけ顔を上げる。
「……なんで」
「なんでって」
少し考える。
「今さらだろ」
それだけ言う。
ユイが、一瞬だけ止まる。
それから——
小さく笑う。
力が抜けるみたいに。
「……ほんと、ばか」
でも、その声は少しだけ柔らかい。
「……帰るか」
「……うん」
並んで歩く。
さっきより、少しだけ近い距離。
自然に。
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廊下に戻る。
ユイがドアの前で止まる。
鍵を出す。
少しだけ手が震えてる。
「……入る?」
思わず言う。
ユイが、一瞬だけ迷う。
それから——
「……行く」
小さく答える。
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部屋の中。
いつもと同じはずの空間。
でも、空気は違う。
ユイが、ソファに座る。
少しだけ沈むみたいに。
「……さっきの」
口を開く。
ユイが、視線を上げる。
「……ごめん」
先に言う。
何に対してかは分からない。
でも——
必要な気がした。
「……なんで謝るの」
「……分かんねえ」
正直に言う。
ユイが、少しだけ笑う。
疲れた笑い。
「……変なの」
そのまま、少しだけ近づく。
今度は迷わない。
自然に。
肩に寄りかかる。
「……ね」
「ん」
「……逃げなくていい?」
小さく言う。
震えてる。
でも、逃げてない。
「……いい」
短く返す。
それだけでいい。
ユイが、少しだけ力を抜く。
完全に預けてくる。
そのまま——
静かに、時間が流れる。
さっきまでのざらついた空気が、少しずつ落ち着いていく。
でも——
もう、元には戻らない。
完全に、境界線の外側に出ていた。




