精神魔法の使い手
第九十一話:精神魔法の使い手
1 ???の独白
全ては、美しく進んでいる。
盤は整った。駒は並んだ。あとは幕が開くのを待つだけだ。
王都の民よ、貴族よ、騎士よ——お前たちは今、私の掌の上にいる。気づいていないだろうが、それが最も美しい。気づかぬまま動き、気づかぬまま傷つき、気づかぬまま憎しみ合う。
天使が来た。聖騎士が来た。冒険者が来た。なんと賑やかな舞台だろう。しかし彼らは障害にはならない。むしろ——最後の仕上げを飾る役者に過ぎない。
もうすぐ、王都に夜が来る。
水に疑いを持ち、隣人を疑い、騎士を信じられなくなった民が、一つの火花で燃え上がる。誰かが誰かを殺す。その連鎖が広がる。自分たちで自分たちを滅ぼす。なんと愛おしい光景だろう。私は一指も触れずに、それを完成させられる。
そして廃墟の中に、救いの手が差し伸べられる。
“あの方”のもとに。
民は跪く。涙を流して感謝する。あの方の偉大さを、骨の髄まで刻み込む。心の救済とはそういうものだ。苦しみの後にしか、真の帰依は生まれない。
ご覧になっていますか、主よ。
この舞台は、あなたのために用意した——最高の贈り物です。
2 着替えと帰還
「一度詰所に戻って着替えてくるわ」
地下水路から出た後、ロイとは別れた。
ロイは濡れた服のまま騎士団詰所へ向かい、俺はエドワードの屋敷に戻った。
着替えながら、今日あったことを順に整理しようとした。しかし頭の中に並ぶものが多すぎて、整理より先に疲労感が来た。
着替えを終えて屋敷を出ようとしたところで、扉が開いた。
「あ、榊さん。戻っていたんですね」
ファルマだった。護衛についていたジンと一緒だった。ジンは真面目そうな顔で、ファルマの少し後ろを丁寧な距離感で歩いていた。
「榊さん、ちょうどよかった」
ファルマが俺を見て言った。その目に、何かを探している色があった。「体調不良の方の件ですが——精神的な何かが原因だとは感じていたんです。でも症状を和らげる薬は作れたんですが、完治まではもう一歩足りなくて」
「ちょうど今から王城に行くところだ。水の体調不良の原因が精神魔法によるものだとわかって、ルーシェンが宰相に精神魔法使いの心当たりがないか聞きに行く。一緒に来るか」
ファルマの目が変わった。
「行きます」
ファルマが迷いなく言った。
「ジンはここで——」
「私も同行させてください」
ジンが静かに言った。その声は柔らかかったが、引かない意志があった。「エドワード副団長からファルマ様の護衛を任されています」
「わかった」
3 王城への道
王城の入口でルーシェンとエリシアが待っていた。
ルーシェンは俺の顔を一度見て、何も言わなかった。エリシアが「濡れていませんね」と言った。
「着替えた」
「そうですか」
入口を守る騎士はもう顔見知りだった。軽く頷いて通してくれた。
廊下を歩きながら、ルーシェンがファルマに向いて話した。
「体調不良の原因ですが——水に含まれる特定の粒子が精神魔法の触媒として機能していました。それを飲むことで精神魔法がかかり、体調不良が引き起こされていたと思われます」
「精神魔法で——」
ファルマは歩きながら少し考えた。その目が内側で何かを組み立てていた。
「それなら、魔法的なアプローチができれば治療薬も作れるかもしれません。でも私には精神魔法の知識が——」
「そういえば」
俺は言いかけて、記憶を手繰り寄せた。
「ファルマに最初に会った時に使おうとした、ルーシェンのポーションがあったな。副作用が大きいので結局使わなかったやつ」
ルーシェンが足を止めかけた。その目が、何かに気づいた顔になった。
「あのポーションは自然魔法からのアプローチですが——精神魔法の観点から考えれば、使える可能性があります」
ルーシェンが俺を見ながら言った。
「精神魔法使いに見せてみる価値がある」
「それを宰相に聞きに行くわけか」
「そうです」
4 宰相の部屋
宰相の部屋の前に護衛の騎士が立っていた。在室しているかを確認して、扉を叩いた。
部屋に入ると、宰相が机に向かっていた。
いつもの胡散臭い余裕のある顔は変わっていなかった。しかしその目の下に、薄い疲れがあった。書類の量が増えていた。王都の状況が悪化するにつれて、宰相の仕事も増えているのだろうと俺は感じた。
「お主たちか……なにかわかったのかな?」
宰相は書類から目を上げながら言った。その口元に笑みがあった。
「来るたびに厄介な話を持ってくるからの」
「体調不良の原因がわかりました」
ルーシェンが先頭にたって言った。
「水に含まれる粒子が精神魔法の触媒として機能しています。精神魔法で体調不良を引き起こしていた。治療には精神魔法の知識が必要です。王都に精神魔法の使い手はいますか」
宰相の表情が変わった。笑みが薄れて、少し別の顔になった。
「精神魔法は……」
宰相は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「迫害されやすい。公表している者はほとんどおらぬな」
「知っている方がいれば」
ルーシェンが重ねた。
宰相は少し考えた。指を机の上で動かした。それから決めた顔になった。
「他言無用だ」
俺たちが頷くのを確認すると、宰相は立ち上がって棚から紙を取り出し、ペンを走らせ始めた。
「住宅街の裏手になる。王都でも目立たない場所だが——精神魔法の腕は確かだ。私のいざという時の協力者でな」
紹介状を折りたたんで俺に渡した。
「彼は精神魔法を使えることを公表していない。行く際はこの手紙を渡せ。くれぐれも慎重にな」
5 街の声
王城を出て、住宅街に向かった。
歩いていると、路地の角で声が聞こえた。
中年の女性が数人、井戸のそばに集まっていた。
「うちの旦那もあの井戸の水飲んでから三日も寝込んでる。同じ井戸で汲んだ水なのに私は平気だし——何がいけないのか全然わからない」
「うちの向かいの家の子も高熱が出て。神官に見てもらったけど治らなくて——神官の回復魔法が効かないなんて初めて聞いたわ」
「何なの、いったい。騎士団は犯人見つけないし、どこの水も信用できないって言われたら、じゃあどうすればいいのよ」
俺は歩きながらそれを聞いていた。
さらに進んだ路地で、今度は年配の男の声が聞こえた。
「最近また地下墳墓から変な音がするって噂を聞いた。夜中に声のようなものが聞こえるって。気味が悪い」
「騎士団も衛兵も増やして巡回しているのに、何も解決しないじゃないか」
「昨日の地下水路からの水も何だったんだ。王都の管理がどうなっているのか」
フォロードゥ・スキャムの策謀が、街の空気を着実に変えていた。直接誰かを傷つけなくても、不信感と不安が積み重なっていた。
6 ピネイルの家
住宅街の奥まった通りを進んだ。建物の造りは周囲と変わらなかったが、ここまで来ると人通りがほとんどなかった。
宰相が示した番地の建物の前に立った。
扉を叩いた。
しばらく間があった。
扉が開いた。
男が出てきた。三十代前半くらいだった。髪が前に垂れており、目元が影になっていた。背を少し丸めて、扉の隙間から俺たちを見た。その目が、来客に慣れていない目だった。
「ケヒヒヒ……な、何の用ですか?」
「宰相からの使いです」
俺は手紙を差し出した。
男は手紙を受け取って読んだ。その目が一度上がって俺たちを見た。また紙に戻った。
「ケヒッ……は、入ってください」
ピネイルと名乗った男に案内されて、家の中に入った。
中は雑然としていた。棚に本が無秩序に積まれていた。机の上に紙が広がっていた。床に荷物が置かれていた。しかし腐ったものや不衛生なものはなかった。生活しているが整えていない、という部屋だった。
ダイニングと思われる部屋に通された。椅子を引いて、全員が何とか座った。
「ケヒヒヒ……み、水の中の粒子が精神魔法の触媒として使われている、ということですか」
ルーシェンが説明を終える前に、ピネイルが口を開いた。先ほどの陰気な雰囲気が消えていた。目が前に出てきた。前のめりになっていた。
「触媒の粒子の成分は——その粒子の密度はどのくらいでしたか。検出した方法は——エリシア様とおっしゃいましたか、どんな解析を——」
「少し待ってください」
ルーシェンが落ち着いた声で答えた。
「順に説明します」
ピネイルは口を閉じた。しかし身を乗り出したまま、全身で聞く態勢になっていた。
ルーシェンが説明した。粒子の成分、検出した方法、患者の症状、精神魔法との関連。
ピネイルが質問した。ルーシェンが答えた。またピネイルが質問した。その速度が、通常の会話より速かった。二人の言葉が追いかけっこをしていた。俺はその断片を拾おうとしたが、専門的な用語が多くて途中から諦めた。
ファルマも途中から聞き取れない顔をしていた。エリシアは目を閉じて何かを処理していた。
「私が作ったポーションがあります」
ルーシェンが言って、マジックバッグからそれを取り出した。
「自然魔法からのアプローチで作ったものですが——」
ピネイルが手を伸ばした。ルーシェンが差し出した。
ピネイルは瓶の中の液体を光に透かした。においを嗅いだ。少し考えてから、指に一滴垂らして舐めた。
「ピネイルさん、安全かどうか確認してから——」
ファルマが言いかけた。
「ケヒヒヒ……だ、大丈夫です。こ、こういうのを調べる時はいつもこうします」
ピネイルは舌の上の感触を確かめながら言った。
「これは——なるほど。自然魔法の基底に、精神魔法の回路を乗せるなら——」
またルーシェンとの高速な会話が始まった。
十分ほどして、ピネイルが椅子の背に体を預けた。頭の中で計算が終わった人間の顔をしていた。
「ケヒッ……できます」
ピネイルが言った。
「こ、こんな規模のものは初めてだが……こ、このポーションに私の精神魔法を加えれば、体調不良を治すことができる。りょ、量の問題ですが——ファルマ様が言われた薬草との組み合わせで水を変質させて、私が魔法をかければ——千倍程度に薄めても十分に効果が、で、出るはずです」
「千倍……!でも、その配合なら、薬として安定させられます」
ファルマが目を丸くしながらも答えた。
「ケヒヒヒ……せ、精神魔法は濃度より回路の問題なので。た、正しく組まれていれば薄くても働きます」
ピネイルは少し早口で言った。
「ひ、必要な量の薬が作れれば、全員に行き渡らせることができます」
「やってみましょう」
ファルマのその目に闘志が宿る。今日一日探していた何かが見えた顔だった。
「ケヒッ……た、ただし」
ピネイルは少し表情を戻した。
「こ、これで体調不良になった人を治すことはできます。で、でも——水そのものへの信頼は戻りません。お、大元が何とかならない限り、また同じことが起きる」
ピネイルはそれ以上は言わなかった。しかしその言葉は十分だった。
俺は窓の外の王都を見た。
体調不良を治す方法はできた。しかしそれは対症療法だった。根本にあるフォロードゥ・スキャムを倒さない限り、王都の問題は解決しない。
全てが、そこに向かっていた。
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ピネイル
王都に潜む精神魔法の使い手。その力は危険視されるため、周囲には隠されている。
過去に能力が露見し迫害を受けたが、宰相に救われ、その配下として精神魔法の助言と実行を担う。
人前に出ることを避ける陰気な人物だが、その内面は飽くなき探究心に満ちており、人の精神を研究対象として観察し続けている。
もし別の時代に生まれていれば、偉大な学者として称えられていたかもしれない。だが、この時代においては――その才は別の形で用いられている。




