罠と濁流と、ハズレの紙
第九十話:罠と濁流と、ハズレの紙
1 地下への入口
地下水路の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
湿った冷気が肌に張り付いた。石の壁から滲み出る水分が、空気そのものを重くしていた。外の王都の喧騒が、扉一枚で完全に遮断された。代わりに聞こえてくるのは、どこかを流れる水の音だけだった。その音が、やけに近く感じた。規則的でなく、深い場所から響いていた。
足元は石畳だったが、所々に苔が生えていた。おそらく光源虫を置く燭台の跡が壁に残っていたが、光源虫は見当たらなかった。
「灯りを」
「聖光球」
ランエルが短く指示した騎士の一人が神聖魔法を発動した。光の玉が頭上に浮かんで、水路の内部を白く照らした。
俺は光を浴びた瞬間、皮膚がわずかにピリついた。浄化の成分が含まれた光だということはわかっていた。闇の力を内側に抑えながら、表情に出さないように気をつけた。
「次は邪悪探知を」
ランエルが次の指示を出した。
別の騎士が剣に魔法をかけた。剣の刀身が薄く光り、その先端がゆっくりと動き始めた。
一瞬だった。
剣の先端が俺の方に向いた。
一瞬、心臓が止まるかと思った。
俺は闇の力を素早く、できる限り意識の奥底に押し込んだ。ほとんど存在しないほどに抑えた。
剣の先端が揺れた。それからゆっくりと、水路の奥の方向を指した。
「悪魔が移動しているな」
ランエルは剣の動きを見ながら言った。その眉が僅かに寄っていた。
「奥だ」
俺は静かに息を吐いた。
隣でロイが小声で言った。
「なんか剣がちょっとこっちに向きかけなかったか?」
「気のせいだろ」
「そうかなあ」
「そうだ」
2 知っていることと知らないこと
水路を進みながら、ランエルが俺の隣に並んだ。
「知っていることを話せ」
圧の強い言い方だった。命令に近かった。しかしここで黙っていても状況は動かない。
「確定ではないが」
俺は前置きした。
「フォロードゥ・スキャムという名の悪魔が王都に潜伏している可能性がある」
ランエルが足を止めかけた。隣の聖騎士たちも動きが変わった。
「フォロードゥ・スキャムは神話の中で討伐されている」
ランエルが言った。その声に、否定する確信があった。
「神々と聖騎士の先達によって、はるか昔に滅ぼされた。それは記録にある」
これは否定すべきじゃないな。
「記録がそう言っているなら、俺の情報が間違っている可能性もある」
「ただ、策謀型の悪魔が動いているのは間違いないと思っている」
「その根拠は」
「直接戦闘は避けて、嫌がらせのようなことを行ってくるが……明確な証拠はない」
ランエルは俺を横から見た。その目が何かを測っていた。
「証明できない情報だ」
「そうかもしれない」
ランエルは前を向いて歩き始めた。
3 罠の連続
水路の奥へ進んだ。
最初の罠は、天井から来た。
石の溝のような仕掛けが壁に沿って走っており、その先端が開いた瞬間、液体が降り注いだ。濁った、色のついた液体だった。においでわかった。汚物だった。
「む!聖壁!」
聖光球の光があったため、天井の仕掛けが開いた瞬間に一人が気づいて聖壁を張った。壁が液体を防いだ。
「聖壁など使うはずではなかったが」
騎士の一人が汚物の降り注ぐ音を聞きながら、歯を食いしばって言った。
ランエルは無言のまま前を向いた。しかしその顎が微かに動いていた。
次の罠は床だった。
「何、床が……うおお!」
石畳の一枚が沈んだ瞬間、壁の穴から縄が飛び出した。縄は前を歩いていた聖騎士の足首に絡みつき、その騎士を壁に向かって引き寄せた。騎士が壁に肩をぶつけた。
「大丈夫か」
俺は声をかけた。
「くっ……問題ない」
騎士が縄を切りながら、罠にかかった屈辱で顔を歪めた。
さらに進んだ。
水路の角を曲がった瞬間、足元から勢いよく水が噴き出した。冷たい水が膝にかかりそうになり皆飛び退く。その水の中に、ネズミが数十匹混じっていた。ネズミが四方に散った。
「おのれ!」
聖騎士の一人が、ネズミを見た瞬間に剣を抜いた。
「何をしている」
ランエルが言った。
「は、いや——」
「ネズミだ」
「わかっています、ただ反射的に——」
それでも剣を構えたまま、騎士はネズミを見ていた。その顔が赤かった。
「神雷」
ランエルが神雷をネズミに向けて放った。ためらいはなかった。ネズミが数匹、焼け焦げて弾けた。水路に焦げたにおいが広がった。残りのネズミが散っていった。
「ネズミにあんな魔法使うか?」
俺は小声で呟いたロイと目が合った。ロイが微妙な顔をしていた。俺も同じような顔をしていたと思う。
罠はさらに続いた。
「なんだこれは?」
「糸が張ってあるな。触れるなよ……あ!」
「注意したやつがかかるなよ!これは、油か!クソ、滑るぞ!」
細い糸に触れた瞬間、壁の穴から油が降り注いだ。
石壁も床も一瞬でぬめり、踏み込んだ聖騎士の足が大きく滑る。
かろうじて油の区画を抜けると、次の区画は足元が崩れやすかった。
「足元が崩れやすい、気をつけろ」
「ああ……うおっ!」
「くっ、聖壁!」
石床が突然砕け、騎士の片足が膝まで沈んだ。
光の壁が展開され、その体が辛うじて支えられる。
罠のたびに聖壁を張る必要があり、聖騎士たちの魔力は確実に削られていった。
「スカウトを連れてくるべきだったな……」
「…………」
俺の言葉に誰も返さなかった。聖騎士は武力は一流でもこういった罠に対する対処は苦手なので、どうしても引っかかる。
そして途中で、死体があった。
「これは……」
乞食と思われる服を着た人間だった。水に半分沈んだまま、水路の脇に横たわっており、目を背けたくなる状態だった。ランエルが近づいて確認した。その表情が、今まで罠で苛立っていた顔とは別のものになった。
「悪魔の仕業だろう」
ランエルが低い声で言った。
俺は死体から目を離した。ヴィルヘルムから聞いた、行方不明になった乞食たちのことが頭にあった。
さらに進むと、また一体あった。
「…………」
今度はより若かった。みんな何も言わなかった。
俺は前を向いて歩き続けた。怒りがあった。策謀を楽しむ悪魔が、この場所で誰も知らないうちに人を殺していた。
4 貯水槽とプレゼントBOX
水路の最奥に、広い空間があった。
貯水槽だった。大きな石造りの池が中央にあり、水道橋から引かれた水がそこに一度溜まる構造になっていた。天井が高く、声が反響した。
広場の隅に、それがあった。
大きな箱だった。木製で、きれいに包まれていた。リボンのような飾りまでついていた。地下水路の暗い広場に、それだけが場違いに置かれていた。
「明らかに罠だ」
俺は言った。思わず声に出た。
邪悪探知の剣が、箱をはっきりと指していた。
「ランエル——」
ランエルは既に神雷の構えを取っていた。
「待て」
俺の声は届かなかった。
極大の神雷が箱に直撃した。
箱が砕けた。破片が広場に散った。天井まで破片が飛んだ。轟音が広場に反響し、耳が痺れた。
煙が晴れた。
箱の残骸の中から、一枚の紙が舞い降りてきた。
ゆっくりと、紙が石畳の上に落ちた。
俺はその紙を拾った。
「ハズレ」
それだけが書いてあった。丁寧な字で。インクが、まだ完全に乾いていなかった。
ランエルの目が、紙を見た。
顔が変わった。
今まで見たことのない、純粋な怒りの顔だった。プライドの高い人間が、完全に侮られた時の顔だった。
「———」
ランエルは何かを言おうとして、言葉が出なかった。顎が動いた。しかし言葉がなかった。
俺は紙を裏返した。
何か書いてあった。
「水に注意」
文字が、わずかに滲んでいた。
俺は顔を上げた。
「戻るぞ!今すぐ!」
5 濁流
踵を返して水路を走り出した瞬間、地鳴りが来た。
地下全体が震えた。水路の壁が振動した。
貯水槽の方を振り返った。
水が来ていた。
音よりも先に、圧が来た。
貯水槽の壁が崩れたのか、あるいは何かが開いたのか——大量の水が、津波のように通路に向かって押し寄せていた。
「聖壁——」
聖騎士の一人が壁を張った。水が壁に当たった。
一秒も持たなかった。
圧倒的な水の質量が、神聖魔法の壁を押し破った。騎士が水と一緒に流された。
俺はロイの腕を掴んで走った。
「走れ——」
「走ってる走ってるって——」
水が追いかけてきた。水路の壁を伝う振動が足から来た。水の音が後ろで大きくなっていた。
マジックバッグに手を突っ込んだ。セイレーンの指輪を取り出そうとした。
水が来た。
足元から来た。水が膝まで来た。腰まで来た。体が浮いた。流された。
俺は濁流の中で指輪を探した。マジックバッグの中に手を突っ込んだまま、水流に回転させられた。石壁に肩が当たった。痛みを無視して指を動かした。
指先に指輪が触れた。
掴んだ。装着した。
結界が展開された。
水が、俺の周囲から弾かれた。世界が、そこだけ切り取られたようだった。
半径五メートルの球形の中で、水が存在しなくなった。俺は水路の底に立っていた。周囲は水が轟々と流れているのに、俺のいる場所だけが空気だった。
横でロイが激しく咳き込んでいた。
ロイが結界の内側にいた。ギリギリで飲み込まれずに済んでいた。
「生きてるか」
俺は言った。
「——なんとか」
ロイが膝に手をついて咳き込みながら言った。
「何これ、水が——水が入ってこない」
「魔道具だ。ルーシェンから預かっていた」
「水を弾くだけじゃなくて、めちゃくちゃ明るく見えるんだけど」
ロイが周囲を見渡した。指輪の効果で視界が開けていた。
「すごいな。昼間みたいに見える」
「便利だろ。とにかく出口を探す」
「俺、うろ覚えだけど——こっちだと思う」
「うろ覚えか」
「多分合ってると思う」
「…………とにかく行くか」
選択肢はなかった。ロイの案内に従った。
6 地上への帰還
水は結界の中では存在しなかったが、水路全体には轟々と流れていた。
歩きながら、水に流された聖騎士たちがどうなったかを考えた。ランエルの強さは見ていた。流された程度でどうにかなる相手ではないとは思う。しかし確認できていなかった。
ロイが前を歩きながら、角を曲がるたびに少し考えてから方向を選んだ。その「少し考える」が毎回あることが、俺の不安を維持し続けた。
「本当に覚えているか」
「覚えてる。たぶん」
「たぶんって」
「いや、合ってる。たぶん合ってる」
三回曲がった後、前方に光が見えた。出口だった。
「ほら、合ってた」
ロイは自慢するように胸を張った。
外に出ると、陽光が目に刺さった。
外の排水路に、突然大量の水が流れ込んでいた。遠くで市民が集まっていた。水を見に来た野次馬だった。
「あ、あれは危ない……危ないから下がってください!」
ロイが走りながら声を上げた。
俺はイヤリングに触れた。
「ルーシェン」
『榊さん、無事ですか。さっきから水路の方が騒がしいようですが——』
「無事だ。色々あった。報告する。研究所はどうだった」
『わかりました、こちらも報告があります。先にどうぞ』
俺は簡単に話した。罠が連続したこと。貯水槽で水に流されたこと。「水に注意」という紙があったこと。
『それと一致します』
ルーシェンの声が少し固くなった。
『井戸の水から検出された粒子を詳しく調べました。毒物ではありません。精神魔法を発動させる触媒として機能する成分です。それを水に混ぜることで、飲んだ人間に精神魔法をかけ、体調不良を引き起こしていた可能性が高い』
「精神魔法の触媒……」
『問題は使い手です。王都の宮廷魔法使いに精神魔法の使い手はいません。宰相なら心当たりがあるかもしれないと思い、今から王城に向かうところです』
「わかった。俺も——」
野次馬の間から、どよめきが来た。
俺は水路の方を見た。
水の中から、白銀の鎧が現れていた。
ランエルだった。
水路の出口から、流されてきた。その後ろから聖騎士たちが続いて出てきた。何人かは鎧に傷がついていた。
ランエルが水路から上がった。水を大量に含んだ鎧が重そうだった。その顔が、感情を抑えているのが逆によくわかる顔だった。
聖騎士の一人が傷を負っていた。別の騎士がすぐに回復魔法をかけた。傷が塞がったが、その効きが完全ではないように見えた。信仰心の問題だろうかと一瞬思ったが、今は口に出さなかった。
ランエルが野次馬を見た。
「見世物ではない」
声が、静かだった。静かなのに、広場に響いた。野次馬が後退した。一人二人と離れ始め、数秒で人の輪が解けた。
ランエルは俺を一度見た。
何も言わなかった。それが、何よりも重かった。聖騎士たちを連れて、来た方向とは別の道に歩いていった。
その背中が、完全に見えなくなってから、俺はロイに言った。
「後が怖いな」
「めちゃくちゃ怒ってたよ、あの人」
ロイが濡れた服を絞りながら言った。
「ハズレの紙のところから、ずっと」
「俺のせいじゃないが、一緒にいたせいで同じ目に遭わせてしまった」
「俺は慣れてるから大丈夫だよ」
ロイはさらりと言った。
「エドワード副団長に怒られる方が多いし」
俺は少し笑いそうになったのを、引き戻した。
笑っていられる状況でないことは、十分にわかっていた。
聖光球
浮遊する光球を生み出し、術者の指示に従って自在に移動させる神聖魔法。主に暗所の照明として用いられる。
光球には微弱ながら浄化の力が宿っており、アンデッドや悪魔に触れるとダメージを与える。
攻撃魔法としての威力は低いが、人間に化けた悪魔や擬態したアンデッドを炙り出す用途に優れる。
邪悪感知
剣や杖などに付与することで、悪魔や闇の力を持つ存在の方角を示す神聖魔法。
感知できるのは方角のみで、距離や正確な位置までは把握できない。
また、闇の力が込められた物体にも反応するため、必ずしも生物のみを示すわけではない。
聖壁
術者が手を翳した方向に、淡く光る透明な障壁を展開する神聖魔法。
物理攻撃・魔法攻撃の双方を防ぐことができるが、一定以上のダメージを受けると砕け散る。
壁の大きさや強度は、術者の力量だけでなく信仰心の深さにも左右される。




