影と会議と、裏の世界
第八十八話:影と会議と、裏の世界
1 監視の気配
朝、エドワードの屋敷を出た。
ルーシェンたちとはいったん別れた。昼前の宰相との約束まで時間があった。俺は王都の街を歩きながら、旅で減った物資を補給して回った。
いつも通りの王都だった。石畳の上を人が流れていた。
俺は人の頭を見た。
草は相変わらず見えた。肉屋の前に立つ男、荷物を担ぐ女、石段に腰かけて休む老人——それぞれの頭に、小さな闇の茎が静かに伸びていた。しかし誰も普通に生活していた。草があるからといって、おかしな行動をしている者は一人もいなかった。
今のところは。
消耗品を一通り買い終えた時、感じた。
視線だった。視線というより、気配だった。後ろから何かに見られている感覚が、首の後ろにかかった。
俺は立ち止まらずに歩き続けながら、さりげなく後ろを確認した。
一瞬だけ見えた。
人影のような何かが、路地の角に張り付いていた。形は人間に近い。しかしその輪郭が不確かで、影そのものが立っているような存在感だった。俺が視線を向けた瞬間に、それは消えた。
以前王都に来た時にも感じていたものだった。あの時と同じ気配だった。
俺は気づいていない振りをして歩き続けた。監視以上のことをしてくる様子はなかった。ただそこにいて、俺を見ていた。
何のために。誰の指示で。
その答えは今はなかった。
2 御前会議
昼前少し前に王城に向かった。
騎士団専用の入口に行くと、話が通っていた。監視の影は城門の前で止まった。城壁の外に留まって、俺が入るのを見ていた。内側には来なかった。
宰相の執務室に向かった。廊下を歩きながら、前回草があった護衛の騎士がいるはずの位置に目をやった。
違う騎士が立っていた。草のない騎士だった。
昨日の巡回で何らかの動きがあったのかもしれない。あるいは宰相が意図的に入れ替えたか。どちらにしろ、宰相が昨日の情報をすでに使い始めていることはわかった。
執務室に入ると、宰相が椅子に座っていた。
「来たか」
宰相が俺を見た。その目が、昨日と変わらず何かを楽しんでいるような色を持っていた。
「今日の昼前に、定例の御前会議がある」
「御前会議?」
「王と大臣たちが集まる。そこで王族や大臣の頭に草があるかどうか、確認してほしい」
俺は自分の格好を見る。鎧にマントに剣……まさに冒険者な姿だ。
「そのままの格好では入れないのでは?」
「当たり前だ」
宰相がベルを鳴らした。
「見習いの書記官として連れていく。着替えてもらう」
入ってきたのは初老の男だった。白髪交じりの落ち着いた顔をしていた。書記官として長年勤めてきた者にしか出ない、静かな風格があった。
「タルマンと申します」
男は俺に向かって丁寧に頭を下げた。
「宰相様から話は伺っております」
準備室で書記官の法衣に着替えた。白と灰色の混ざった落ち着いた服だった。剣をどうするかで少し考えた。持っていくわけにはいかない。しかし手放す気にもなれなかった。
ペンダントに触れた。小さくした剣が、手のひらの上に収まった。アクセサリーほどの大きさになった剣を、外套のポケットに入れた。そこにあることを確認してから、準備室を出た。
タルマンが俺の隣に来て、小声で話した。
「草が見えた際は、私にそっとお伝えください。私が記録します。見習いとして来ているということになっておりますので、余計な発言はなさらず」
「わかりました」
「会議中は書記官の机の後ろに立っていてください。私は議事録を取ります」
宰相の後ろについて歩いた。廊下ですれ違う者が、宰相に気づいて次々と礼をした。
会議室に入った。
広い部屋だった。長い卓が中央に置かれ、その両側に椅子が並んでいた。大臣たちがすでに着席していた。財務大臣、法務大臣、防衛大臣——それぞれの役職を示す服を着た人間が、静かに着席していた。
俺は書記官の机の後ろに立った。タルマンが静かに席についた。
大臣たちの頭を見た。
草はなかった。一人一人確認した。草のある者がいなかった。
会議室の端に、見慣れた顔があった。
ヴェルナート子爵だった。
俺は彼を見た瞬間、内側で何かが警戒を上げた。
以前に感じたものと同じだった。人間には見えない何かが、子爵の形を取っていた。肌の色も、着ている服も、座っている姿勢も、全てが人間のそれだった。しかし俺の目には、それが人間に見えなかった。何か別のものが、人間の皮を纏っているような見え方をした。
これがフォロードゥ・スキャムだとすれば——大悪魔が、王国の貴族として御前会議の席に座っている。
扉が開いた。
全員が立ち上がった。
王が入ってきた。五十代くらいの男だった。威厳というより、疲れが滲んだ顔をしていた。その後ろに二人の男がついていた。三十代前半の精悍な顔の男——第一王子だろうと俺は見た。そしてもう一人、二十代後半の、感情を表に出さない顔の男。おそらく第二王子。目が鋭く、冷徹な雰囲気だった。
「本日の御前会議を行う」
宰相の声に全員が礼をした。俺も頭を下げた。
会議が始まった。
財務大臣が数字を読み上げた。法務大臣が条例の改正案を説明した。防衛大臣が北の国境の状況を報告した。
俺は聞きながら、王族の頭を確認した。
草はなかった。王にも、第一王子にも、第二王子にも。大臣たちにも引き続き草はなかった。
ひと通りの報告が終わった頃、ヴェルナート子爵が立ち上がった。
「一点、ご報告がございます」
その声は穏やかだった。慈悲深さを感じさせる、よく通る声だった。
「王都の西区画の炊き出しについてですが、先月より対象者が増加しており、孤児院の方でも受け入れ人数が上限に近づいております。来月からの経費の増額をご検討いただきたく」
財務大臣が眉を寄せた。
「またですか。子爵の善意は理解しますが、王国の財政にも限りがある。毎月増額では——」
「財務大臣」
子爵は財務大臣を見た。その顔に、責める色はなかった。むしろ穏やかだった。
「もちろん財政の懸念は理解しています。ただ、今申し上げたいのは費用の話だけではありません」
子爵が続けた。
「炊き出しを受けた民は、次の仕事に就く体力を取り戻します。孤児院を経て成長した子供が、後に王国の労働力になる事例も増えています。投資として見れば、長期的な王国への利益にもなる」
「実際健康を取り戻したもの達による、この間の工事が滞りなく進んだのはご存知のはず」
「む……」
財務大臣が口を開けようとして閉じる。子爵の声が続いた。
「加えて——助けられた民の感謝は、王国への忠誠に繋がります。これは目に見えないものですが、王国の土台を作るものでもあります」
財務大臣が完全に黙った。
会議室に静けさがあった。
宰相が静かに口を開いた。
「子爵のご尽力は王国の信頼を高めるものです。予算については今後の審議の中で適切に検討いたしましょう」
会議が穏やかに収まった。
俺はその場面を見ていた。
慈悲深さと老獪さが、一つの声の中に混在していた。反論の余地を丁寧に塞ぎながら、しかし誰にも嫌な顔をさせなかった。
その子爵の目が、会議の終わり際に俺を捉えた。
ニヤリとした。
ほんのわずかに——口元が歪んだ。
見抜いている者の笑みだった。
背筋に冷たいものが走った。
3 城内の巡回
会議が終わった後、宰相とタルマンについて城内をさらに回ることになった。俺は少し驚いたが、断る理由もなかった。
今日は昨日行かなかった区画だった。厨房周辺、下働きの詰め所、貴族の控室、城付き聖職者の区画——順に回った。
下働きの人間の頭には草があった。その割合は昨日と変わらず、二割程度だった。騎士にも草があった。
しかし貴族の控室では、一人も草を見なかった。城付きの聖職者たちにも草はなかった。
途中の廊下で、女性たちと鉢合わせた。
王妃だった。その周囲を女官が囲んでいた。王妃は俺を見て、少し視線を止めた。
「宰相、その方は」
「見習いです。最近来た者で」
宰相が穏やかに答えた。
王妃の目が俺を一度見た。それ以上の興味を持つ様子はなく、視線が移った。廊下の先で三人の王女らしき女性たちがいた。その全員の頭を確認した。
草はなかった。
執務室に戻った。
「貴族と聖職者には草がなく、下働きと騎士には引き続きあります」
俺は報告した。
「そしてヴェルナート子爵は——人間には見えませんでした」
宰相の目が鋭くなった。部屋の中で、初めてその目が全く別の顔になった。
「確かか」
「断言はできませんが、可能性は高いと思います」
「フォロードゥ・スキャム、か」
宰相は低い声で言った。もうそこまで悪魔の正体にたどり着いていることに少し驚く。宰相は指を机の上で組み、続けて言う。
「しかし今は動けぬな」
「証拠がないからですか?」
「証拠がないこともある。しかし——相手が本当に大悪魔であれば、こちらが動けば動くほど警戒して引っ込む。あるいは逆に、準備が整う前に動き出す可能性もある」
宰相は一度目を閉じた。
「慎重に進める。監視は強化するが、表立った行動は今は取れぬ」
「わかりました」
「何かあれば伝令か伝達鷹で知らせる。お主もそうしてくれ」
俺は元の服に着替えた。剣は小さいままポケットに入れておいた。
4 路地裏の影
王城を出た瞬間、また感じた。
今度は昼間とは違った。監視だけではなかった。その中に、薄く混じっているものがあった。
殺気だった。
俺はイヤリングに触れた。
「ルーシェン」
『はい』
「今どこにいる」
『東区画の市場の近くです。何かありましたか』
「今は王城を出て貴族街を抜けたところだ。以前と同じ影に監視されているが、今度は殺気がある。人通りの少ない方に誘導して、路地裏に入る」
『わかりました。向かいます』
俺は自然な歩き方を崩さないまま、大通りから外れた。路地に入った。石造りの建物が両側に迫り、空が細くなった。
三人の男がいた。
大柄だった。三人とも服装が粗く、腕を組んでこちらを見ていた。見るからにという種類の人間だった。
「お、旅の若いの。この路地を通りたければ——」
その瞬間、影が来た。
上からだった。建物の壁を伝うように滑り降りてきた影が、俺に向かって両腕を伸ばした。
すぐポケットの中から剣を出し、大きくして振り抜く。
刃が影の腕を弾いた。
「ヒイッ!?」
大男三人が全員後退した。その顔が、話していた内容を完全に忘れた顔になっていた。剣が突然現れたことと、影のようなものの襲撃が同時に起きたことで、思考が追いついていない顔だった。三人は顔を見合わせ、そのまま路地の奥に向かって走っていった。
影と向き合った。
人型だった。背中が丸まった、猫背の形をしていた。両腕に、鉤爪のような形が生えていた。全て影の素材でできており、形だけがあった。目もなく、口もなく、ただその輪郭だけがそこにあった。
影が動いた。音がなかった。
「くっ、速い!」
速かった。地面の影に溶け込んで、別の場所から現れた。俺の足元の影から腕が伸びてきた。咄嗟に跳んで躱した。
斬りかかった。影の腕に剣が当たり切り落とす。
しかし影の腕は、すぐに生えてきた。
俺は交戦しながら感じていた。
この影は闇の力に似ていた。しかし違った。俺の闇の力が持つ、何かと共鳴する性質を持っていなかった。もっと純粋に「暗さ」だけでできているような感じがした。これは闇の力ではなく、闇を模倣した何かだった。
蹴り飛ばした。影が壁に当たった。すぐ戻ってきた。
首を切り飛ばす。それでも何事もなかったように生えた。
しかし——感じる力が、少しずつ弱まっていた。完全に無駄ではなかった。削れていた。
足音が聞こえた。
路地の入口に人影が現れた。
空気が変わった。大きかった。影の化け物とは別の意味で——圧があった。護衛の戦士二人を連れた、貫禄のある男が路地に立っていた。
サクラモントの街のマフィアのボス、ヴィルヘルムだった。
「音がするから何事かと見に来れば……お前は榊か」
腕を組んで、俺と影の化け物を交互に見ていた。その顔に驚きはなかった。ただ状況を測っている目があった。
影が新しい侵入者に気を向けた。その動きが一瞬、俺から離れた。
俺は踏み込んだ。
剣を振り下ろした。真っ向から、影の体の中心を断った。上から下へ、真っ二つにした。影が左右に分かれた。俺はそのまま残った右の半分を横に薙ぎ、次に左の半分を上から打ち落とした。更に細かく切り込んだ。
影が汚泥のように床に落ちた。煙が立ち、そのまま消えた。
静かになった。
ヴィルヘルムが腕を組んだまま俺を見ていた。
「見事だな……しかし何事だ?」
ヴィルヘルムが話しかけてくる。声が低かった。
「それと、さっきの化け物は何だ」
「悪魔が王都に入り込んでいます」
俺は剣を納めながら言った。
「詳しいことはまだわかってませんが、その関係のものだと思う」
ヴィルヘルムは少し考えた。その視線が路地の入口から奥まで動いた。
「着いてこい」
ヴィルヘルムは振り返って歩き始めた。
「どこへ?」
「見てもらいたいものがある」
それだけ言って、ヴィルヘルムは路地を進んでいった。俺はその背中を見てから、後に続いた。
フォロードゥ・スキャム
神話の時代に幾つもの都市を滅ぼした大悪魔。恐怖や不安を糧とし、人の疑念を煽り、同士討ちへと導くことを愉しむ存在。
かつて光の秩序神が築いた“完全な秩序”の中でその策は封じられ、追い詰められた末に討たれたとされる。
だが――現代においても、その影は確認されている。
もし討伐が偽りであったならば。
この世界に、再び“完全な秩序”を築くことはできるのだろうか。




