ダリアの根
第八十八話:ダリアの根
1 隠れ家の地下
ヴィルヘルムに案内された先は、路地裏の奥にある何の変哲もない家だった。
外から見れば、ただの古びた民家だった。窓の造りも扉の大きさも、周囲の家と何も違わなかった。しかしそれが余計に、この家が普通でないことを感じさせた。
歩きながら、俺はイヤリングに触れた。
「ルーシェン」
『榊さん、今向かっています。あとどのくらいで——』
「路地裏を少し入ったところだ。ヴィルヘルムに会って案内されている。影は倒した。一緒に来てもいいか確認する」
ヴィルヘルムを見た。ヴィルヘルムは少し考えて、頷いた。
「来てもらった方がいいかもしれん」
ヴィルヘルムは低い声でそう言った。その言葉に、珍しく何かを迷っている色があった。
「ルーシェン殿にも診てもらった方がいいかもしれないな」
「聞こえたか」
俺はイヤリングに言った。
『聞こえました。経路を教えてください』
来た道を逆に辿る形で説明した。ヴィルヘルムは護衛の一人を入口前に残して、ルーシェンが来たら通すよう命じた。
家の中に入った。
玄関を抜けた瞬間、地下から音が聞こえてきた。
重いものがぶつかる音だった。規則性がなく、断続的に続いていた。
ヴィルヘルムが床の一部を開けた。地下への階段があった。音が大きくなった。
階段を降りると、地下室があった。
普通の民家の地下とは思えない造りだった。天井が高く、廊下が奥に向かって続いていた。両側に鉄格子が並んでいた。
廊下を歩きながら、俺は格子の中を見た。途中の房に拷問器具らしきものが置いてあった。使われた形跡があった。俺は黙って前を向いた。ここが何のための場所かは聞かなかった。
音が大きくなった。最奥の房からだった。
房の中に、少年がいた。
十歳くらいだった。石造りのベッドに縛りつけられており、体全体を使って暴れていた。縛られた腕と足が、ベッドの縁を叩き続けていた。その目は焦点が合っていなかった。
俺は少年に向かって一歩踏み出した。こんな年の子を縛りつけるなど——
言葉が止まった。
少年の頭を見た。
草があった。しかし昨日王都で見た草とは違った。草の先端に、花が咲いていた。濃い赤と紫が混じったような、重い色の花だった。その花が、少年の頭の上でゆっくりと揺れていた。
「あの少年は誰ですか」
俺はヴィルヘルムに聞いた。
ヴィルヘルムは少し黙った。その横顔が、普段の貫禄を持ちながら、しかし別のものを帯びていた。
「俺の息子だ」
ヴィルヘルムが話した。
十年ほど前、王都で出会った行き倒れて助けた女性との間にできた子だった。女性は子供が幼い頃に亡くなった。サクラモントには既に家族がいた。跡目の問題もあった。息子を連れていくことは危険だった。だから息のかかった孤児院に預け、支援をしながら年に数回会いに来ていた。
「あの子は俺が父親だとは知らん」
ヴィルヘルムは格子の向こうで暴れる少年を見ながら言った。その目が、強面の貫禄とは別の何かを宿していた。
「来るたびにお菓子を持ってくるおじさん、それくらいにしか思っていないだろう」
ヴィルヘルムが続けた。数日前、孤児院に会いに行った。少年はいつものように笑顔で迎えた。しかし後ろを向いた瞬間、少年がナイフで襲いかかってきた。護衛の戦士が咄嗟に防いだ。その後も少年は暴れ続けたため拘束し、この隠れ家に連れてきた。
「裏のツテを全部使った。魔法使い、研究者、はぐれの神官——全員診てもらったが原因がわからなかった」
ヴィルヘルムの声に、苛立ちと焦りが混じっていた。それを抑えようとしている努力が、その声の奥にあった。
足音がした。
ルーシェンが降りてきた。廊下を見渡して、俺のいる方へ来た。
2 ダリアの花
「頭に花が咲いた草がある」
俺はルーシェンに言った。
「今まで見てきた草と同じ種類だと思うが、花が咲いている」
「花が」
ルーシェンが少年の方を見た。何も見えていないはずだが、その目が慎重だった。
「花?何も見えないが——」
ルーシェンは何か言おうとしたヴィルヘルムを見た。
「少し前まで普通だったのに、突然暴れ始めたということですね」
「そうだ」
ヴィルヘルムが短く答えた。
「どういうことか説明してくれ」
ヴィルヘルムが俺に向き直った。
俺は簡単に話した。王都に来て以来、人の頭に闇でできた草が生えているのが見えること。その草は二十人から三十人に一人程度の割合で見られること。今まで草があっても普通に生活していた人間が多かったが、少年の草には花が咲いていること。
ヴィルヘルムは俺の話を聞きながら、格子の外側の壁に手をついた。その手に力が入っていた。
「一つ確認させてください」
ルーシェンが俺に向いた。
「花の形はどんなものですか」
俺は少年の頭を観察した。花弁が何層にも重なった牡丹のような花、これは……、
「ダリアだ」
「ダリア……」
ルーシェンが少し考えた。
「ダリアの花言葉には良い意味があります」
ルーシェンは静かに言った。
「華麗、優美、気品、感謝——」
その言葉が一度止まった。
「そして悪い意味もあります」
「何だ」
「不安定、移り気、気まぐれ……そして裏切り」
ルーシェンはそこで少し間を置いた。
「それが最後に来る意味です」
その言葉が、俺の中に落ちた。
裏切りが最後に来る。少年がヴィルヘルムに向かってナイフを向けた。その時の動きが、頭の中で繋がった。それは少年の意思ではなかった。草が花を咲かせた瞬間に、持ち主を裏切りの行動に向かわせた。
「これから起こることは他言無用です」
ルーシェンがヴィルヘルムに向かって言った。その声に、念押しの圧があった。
「わかっている。そいつも口は固いから大丈夫だ」
ヴィルヘルムは護衛の男を見ながら答えた。
「榊さん、闇の共鳴を使って、花ごと引き抜いてみてはどうでしょう」
ルーシェンが俺に向き直る。
「草を引き抜いて消せるかどうか——試す価値があると思います」
3 引き抜く
護衛の戦士が少年を押さえた。
少年は激しく暴れた。縛られているのに体全体で抵抗していた。戦士が少年の頭の動きを固定した。
俺は房に入った。
少年の頭の上に手を伸ばした。闇の力を引き出した。
花を掴んだ。
冷たかった。
生き物の温度ではなかった。
引っ張った瞬間、強烈な何かが来た。
拒絶だった。手の中に掴んだ花から、人間の感情ではない何かが押し返してきた。嘲るような意志があった。人を弄ぶことを楽しんでいるような、冷えた感情が手を通して流れ込んできた。
俺は引いた。
ゆっくりと、引き抜こうとした。
抵抗が来た。花が根を張り直そうとする感覚があった。根が少年の頭の中でしがみついていた。俺はそれを丁寧に、しかし確実に剥がしながら引いた。
息が上がった。額に汗が滲んだ。体の中の闇の力が削れていく感覚があった。引き抜くという行為が、単純に見えて、体の奥底から力を搾り取っていた。
花の下に球根があった。
想像以上に大きかった。そしてそこから根が伸びていた。細い根が何本も、少年の頭の中に絡みついていた。物理的な質量はなかった。指で触れても少年の頭を傷つけることはなかった。しかしその根を引き出すたびに、抵抗の圧力が増した。
俺は歯を食いしばった。
視界が少しぶれた。足が笑いそうになった。それでも手を止めなかった。
根が一本、また一本と離れた。
汗が顎から落ちた。ルーシェンが俺の背後で何も言わずにいた。その存在が、後ろにあることだけが、俺を踏み止まらせていた。
最後の根が離れた。
花と草と球根と根が、俺の手の中に全て収まった。
その瞬間、花が小さく鳴いた。
悲鳴というより、憤りだった。人に抜かれることを、初めて知ったような声だった。嘲るように楽しんでいた何かが、初めて不快を表した声だった。それは一瞬だけあって——消えた。
俺は膝をついた。
床に手をついて、息を整えた。体の奥が空っぽに近かった。頭が重かった。
「榊さん」
ルーシェンが傍に来た。その手が俺の肩に触れた。
「大丈夫だ」
「無理をしないでください」
「大丈夫だと言った……ただ連続でするのは無理だな」
少年がぐったりした。暴れていた体から、力が全部抜けていた。
4 少年とヴィルヘルム
ヴィルヘルムが素早く房に入り、懐から瓶を取り出した。少年の口元に当て、静かに飲ませた。その大きな手が、少年の頭を支えていた。その動作に、普段の貫禄とは全く別のものがあった。
少年の目が、ゆっくりと開いた。
しばらく焦点が定まらなかった。
天井を見上げていた。それから縛られた手首を見た。それから周囲を見た。
「……ここ、どこ?」
少年が言った。声が細かった。
「縄を解いてやれ」
ヴィルヘルムが護衛に言った。
縄が解かれた。少年が体を起こした。ヴィルヘルムを見て、不機嫌な顔になった。
「縛ってたのはおじさん?」
「仕方なかった」
ヴィルヘルムが言った。それでも、声はわずかに掠れていた。
「なんで——」
「これをやる」
ヴィルヘルムが懐からお菓子を取り出した。包まれた甘いものだった。少年がそれを見た。不機嫌な顔のまま受け取った。しかし受け取った後、少し表情が和らいだ。
地下から上がり、ダイニングに移った。
少年は椅子に座り、お菓子を食べながら俺たちを交互に見ていた。ヴィルヘルムが隣に座って、静かに少年に話しかけた。
「ここ最近で、覚えていることはあるか」
「……孤児院のこと?」
少年は考えるように目を動かした。
「おじさんが来てくれた日は覚えてるけど、その後はよくわからない。夢みてたみたいな感じ」
「その前は」
「少し前に——炊き出しのご飯、貰ったんだ」
少年が言った。
「院長先生には内緒で」
俺はルーシェンを見た。
「ヴェルナート子爵が炊き出しを積極的に進めていた」
俺は小声で言った。
「会議でも報告していた」
「経路の一つとしては考えられます」
ルーシェンは静かに答えた。
「ただ——炊き出しだけでは説明がつかない。騎士や王城に勤める者が炊き出しを食べるとは考えにくい。別の経路もあるはずです」
少年はお菓子を半分食べて、残りをポケットに入れた。
「帰っていい?」
少年が言った。
「もう少し待て」
ヴィルヘルムが言った。その声が、静かだった。
「腹が落ち着いてからだ」
少年は不満そうな顔をしたが、黙って椅子に座り続けた。
5 全面協力
ヴィルヘルムが俺たちと別室に移った。
「助かった」
ヴィルヘルムは言った。その言葉が短かったが、重かった。
「あの少年が大事な人だということはわかりました」
ヴィルヘルムは何も言わなかった。しかし目が、少しだけ動いた。
「王都で大きなことが起きようとしています」
俺は続けた。
「悪魔が入り込んでいる。あの草が何のために植えられているかも、まだわかっていません」
「俺にできることを言え」
ヴィルヘルムが言った。腕を組んで、俺を見た。
「借りを返す。裏の世界の情報は全部集める。人も動かせる」
「連絡手段を渡します」
ルーシェンがイヤリングの予備を取り出し、ヴィルヘルムに渡した。
「通信具です。使い方は——」
ルーシェンが説明し始めた。
ヴィルヘルムはそれを受け取って、目を細めた。その目が、珍しいものを見る目だった。
「これが通信具か」
「魔法的な仕組みです。付けてから私の名前を呼べば繋がります」
「わかった」
ヴィルヘルムはイヤリングを受け取り、しばらく眺めてから懐に入れた。
6 路地裏の影、再び
ヴィルヘルムと別れて、家を出た。
路地裏から大通りに向かう道を歩いた。
来た。
今度は複数だった。路地の前後、壁の上、影の中——五体の影が同時に現れた。
前の一体が来た。
「はっ!」
俺は剣で払い、影が後退した。しかし右から別の一体、そして左からも来た。同時に上からも来た。
「ルーシェン、後ろに!」
ルーシェンを後ろに押しやりながら、俺は前に立った。二体を同時に相手にした。影の一体が床に潜った。足元の影が、一瞬だけ濃くなった。足元から来る——跳んで躱した。
数が多く、守りながら戦うのは難しかった。
「光で影を消せるかもしれません」
ルーシェンが言って、すぐに魔法を構えた。炎を路地の上に広げた。
光が満ちて、影のできる場所が減った。
しかし完全には消せなかった。壁の陰、路地の曲がり角——光が届かない場所がどうしても残った。影はその場所に引いて、また別の場所から出てきた。
「壁を背にして——」
ルーシェンが言いかけた。
「駄目だ!」
俺が答えた。
「壁の影から来る!」
先程の花を抜いたことでの消耗もある。ジリ貧だ。
「ぐっ!」
ルーシェンの腕に影の鉤爪が掠めた。ローブが衝撃を和らげたが、腕が鈍く痛むのが声でわかった。
「ルーシェン——!」
そう言いかけた時、何かが光った。
光が路地を貫いた。
何が起きたのか、一瞬わからなかった。
影の一体が、槍で貫かれていた。
光と見間違う速さで、人間が動いていた。
白銀の鎧だった。槍を持った男が、影を一体貫いたまま、次の一体へ向かって踏み込んだ。槍が抜かれ、振られた。その軌跡が、俺の目にかろうじて追えた。光が通り過ぎたような速さで、影が次々と消えた。
全て倒れた。
ほんの数秒だった。
路地が静かになった。
ギディウスだった。
槍を肩に担ぎ、こちらを見ていた。その顔が、昨日の穏やかな表情とは全く違った。武人の顔だった。荒々しく、鋭く、今まで見ていなかった側の顔だった。
「悪魔の眷属か」
ギディウスが言った。その声に吐き捨てるような感情があった。
「この街に悪魔がいるな」
俺はギディウスを見た。
「いきなり襲われました。悪魔がいるとすれば、そういうことだと思います」
「何を知っている」
ギディウスの目が細くなった。
「俺たちも調べている最中です。今のところわかっていることは多くない」
ギディウスはしばらく俺を見ていた。その目は、信じているかどうかわからない目だった。
「悪魔が王都にいるなら、我々の管轄だ」
ギディウスはそれだけ言って、踵を返した。その背中が路地を抜けていった。
俺はため息をついた。
「聖騎士に知られた」
「そうですね」
ルーシェンが腕を押さえながら言った。
「状況が複雑になりました」
7 エドワードの屋敷
「ルーシェンさん、怪我をしたんですか!?」
帰っている途中、ファルマが走り寄ってきた。ルーシェンの腕を見て、すぐに回復薬を取り出した。ローブを捲って傷を確認し、丁寧に薬を塗った。
エドワードの屋敷に戻り、全員が揃った。夕方になっていた。
エドワードが帰ってきた。俺は今日あったことを全部話した。影のこと、ヴィルヘルムのこと、少年の草と花のこと、炊き出しの話、御前会議でのヴェルナート子爵のこと、ギディウスに影の存在を知られたこと。
エドワードは話を聞きながら、途中から手で額を押さえた。
「一日でそれだけのことが——」
エドワードは深く息を吐いた。
「第二騎士団に草が生えている者がいます」
俺は言った。
「明日の朝、全員集まる時間があれば見ておきたい」
「ある。朝の点呼がある」
エドワードは立ち上がった。
「俺は宰相に話してくる。今夜のうちに知らせる必要がある」
エドワードが王城に向かった。
ファルマとエリシアに話した。
影の刺客がいつ来るかわからないこと。草に花が咲いた人間が何をするかわからないこと。炊き出しが草の経路の一つである可能性があること。
ファルマが少年の話を聞いた時、言葉を失った。しばらく何も言えない顔をしていた。
「十歳の子が——」
ファルマが呟いた。
「花が咲く前に対処できれば、あの少年のようにならずに済む」
ただ、その対処方法が分からない。消耗が激しいので俺が一人ずつ抜くのは無理だ。
「わかりました」
ファルマは静かに答えた。その目に、揺るがないものがあった。
夜になって、訪問者がいると使用人に言われた。
セレナだった。フードを外して立っていた。
「失礼します」
応接室に通した。
「地下墳墓を改めて調べました」
セレナが言った。
「奇妙な力を感じました。悪魔そのものではなく——何かが通り抜けた跡のような」
「近々何かが起きると思うか?」
「近いうちに、何かが来ると感じます。が、はっきりとはわかりません」
セレナは少し間を置いた。
「承認をお願いするかもしれません」
「……わかった」
セレナの封印を解けば、その力で大きな被害が出る。しかし村とは違い、封印をとく承認をできそうな人はいくらでもいる。ならば、こちらのタイミングで封印を解く方が少しはコントロール出来るはずだ。
「こちらも伝えることがある。今日、路地裏で影の化け物に複数体襲われた。そしてそれを聖騎士のギディウスが見た。悪魔の眷属と判断して倒していった」
セレナの目が、わずかに動いた。
「聖騎士が動き始めている、ということですね」
「そうなる」
「留意します」
セレナは頷いた。そのまま立ち上がり、フードを被り直した。
「また何かあれば」
「ここに来てくれ」
セレナは頷き出ていった。
扉が閉まった。
屋敷の中が静かになった。
俺は部屋に戻り椅子に腰を下ろして、目を閉じた。
今日一日で何が明らかになったか。何がまだ見えていないか。
草の経路は複数ある。悪魔フォロードゥ・スキャムがヴェルナート子爵として動いている可能性が高い。影の刺客が俺たちを狙い始めた。聖騎士も悪魔の存在を知った。セレナも動いている。
全部が同じ何かに向かって、収束していく気がした。
それがいつ、どこで弾けるのかだけが、まだわからなかった。
気づいた時には、もう遅いのかもしれなかった。
ダリア
華やかさと気品を象徴する花でありながら、「裏切り」「不安定」といった意味も持つ。
美しく咲き誇るその姿とは裏腹に、人の心の移ろいやすさを象徴する花とも言われている。
――そのためか、この世界ではダリアを“忌むべきもの”として扱う者も少なくない。




