草と影と、きな臭い夜
第七十六話:草と影と、きな臭い夜
1 天使との再会
セレナだった。
間違いなかった。あの村で見た顔だった。バエルを滅ぼし、俺たちを村から追い出す遠因を作った天使が、王都の地下墳墓に立っていた。
胸の奥に、何かが走った。
あの村の最後の光景が一瞬だけ浮かんだ。逃げ出した俺たちの後で、村がどうなったか。バエルの庇護を失い、半壊した村が、魔物によって——。
俺はその記憶を意識的に押し込めた。今は関係ない。今必要なのは、この状況を整理することだ。
「セレナ」
俺は言った。
「なぜここにいる」
セレナは俺を見た。その目は変わっていなかった。感情を映さない、透明に近い目が、俺を見ていた。
「神の命で、王都に潜伏する悪魔を討伐するために参りました」
声も変わっていなかった。人間の言葉を話しているのに、どこかで機械的な何かを感じさせる声だった。
「ここで何をしていた」
「王都の調査です」
セレナは墳墓の奥を一度見てから、俺に視線を戻した。
「来てからしばらく経ちますが、これといった手がかりがありませんでした。しかし最近、この地下墳墓のように悪魔の力を感じる場所が出てきました。それで調べていました」
「どんな悪魔だと見ている」
「フォロードゥ・スキャム」
セレナは迷いなく名を言った。
「人を欺き、操り、それを愉しむ大悪魔です。過去にも人々を操り、騙し、それを楽しんでいた記録があります」
策謀型の悪魔。俺は頭の中でその言葉を置いた。
「この墳墓を調べた結果は」
「悪魔の力の残渣は確かにあります。しかし実際の悪魔に繋がる情報には至りませんでした」
セレナは端的に答えた。情報を隠している様子はなかった。それがセレナという存在の性質だった——感情がない分、嘘をつく理由も薄い。
「王都には神殿がある」
俺は言った。
「秩序と光の神の天使なら、神殿の助力を受けられたんじゃないか」
「それは一度考えました」
セレナは少しだけ間を置いた。
「しかし王都は人が多い。天使であることが漏れれば、フラウド・スキャムは姿を表さなくなる。神殿には多くの人間が出入りします。どこから情報が漏れるかわからない。だから単独で動いていました」
それは正しい判断だった。俺にはそう見えた。ただ、セレナが「正しい判断」をする時と、セレナが「間違った判断」をする時の線引きが——見えない。
俺は頭にある草のことを話そうかと一瞬考えた。
しかし止めた。
草のことを詳しく説明すれば、それを見ている俺の力に話が及ぶ。闇の力を持つことがセレナにわかれば——天使は粛清を迷わない。それに、ヴェルナート子爵の話も今は言えない。確証のない段階でセレナが動けば、王城に突っ込みかねない。その際に生じる被害を、セレナは考えない。あの村の子供たちが邪魔だという理由で命を奪われた記憶が、警戒を呼んでいた。
「今王都に聖騎士が来ている。それも神のお告げか何かか?」
俺は話を変えた。
セレナの目が、わずかに動いた。
「聖騎士が?」
「カルガリー神聖国の。二十人近く」
「……私は知りません」
セレナは少し考えるような間を置いた。
「少なくとも、神から私への指示にそのような話はありませんでした」
聖騎士の動きをセレナも把握していない。それだけはわかった。
「何か掴めたら、教えてください」
セレナは言った。
「私が泊まっている宿を教えておきます。何かあれば来てください」
宿の名を告げられる。時の狭間亭…… 妙に場違いな名だと思った。
「わかった」
俺は頷いた。
「セレナも、何かわかれば教えてくれ」
「そうします」
セレナはフードを被り直した。その動作が、感情を込めずに行われた。そして踵を返し、墳墓の奥へ向かって歩いていった。
その背が暗闇に消えた。
しばらく誰も口を開かなかった。
「……不気味です」
ファルマが小声で言った。腕を少し抱えていた。
「人間のような見た目なのに、どこかが——」
「以前もああいう感じでした」
エリシアがセレナが去った方向を見ながら呟く。
「天使ですから」
ルーシェンが静かに言った。その目はセレナが消えた方向をまだ見ていた。その視線は鋭かった。
2 王城の草
墳墓を出た時、空の色が夕方に向かっていた。
王城前に向かった。しばらく待つと、エドワードが来た。以前と同じ入口から中に入った。
王城の廊下を歩きながら、俺は人の頭を見続けた。
メイドがいた。草がある者とない者が混在していた。廊下の角で書類を運ぶ文官がいた。その頭に草があった。角を曲がった先に、第一騎士団の騎士が立っていた。王城の精鋭だった。その頭にも、草があった。
エドワードが宰相の部屋の前まで俺たちを連れて来た。扉の両脇に護衛の騎士が立っていた。右の騎士の頭に草があった。左にはなかった。
「第二騎士団副団長のエドワードだ。宰相閣下に呼ばれてきた」
「話は聞いております。どうぞ」
エドワードが声をかけると、話は通っていたらしく扉が開いた。
宰相の部屋に入ると、宰相が窓際の椅子に座っていた。
以前会った時と変わっていなかった。白髪交じりの老人で杖をついている。その顔に常に何かを楽しんでいるような余裕があった。しかしその目の奥に、容易には測れない深さがあった。
「よく来た」
宰相は立ち上がりもせず、しかし感じのいい声で言った。
「座れ座れ」
椅子に腰を下ろした。
「ヴェルナート子爵の件だな」
宰相が言った。
「お主たちが来るかと思っておった。エドワードから連絡があっての」
「子爵に動きがあると聞きました。詳しく聞かせてもらえますか」
「動きはある。あるが、証拠がない」
宰相は杖の上の指を組んだ。
「何かをしているのは間違いないが、何をしているかが見えない。見えないものは追えない。これが厄介でな」
俺はルーシェンを見た。ルーシェンが俺の後ろで、口だけを動かして言った。
「話してみてはどうですか。宰相はおそらく——気づいています」
宰相の目が、俺とルーシェンの間を見ていた。その目が細くなった。
「何か言いたいことがあるなら言え」
宰相が穏やかな声で言った。
「ここには儂とお主たちとエドワードだけだ」
俺は少し考えた。
「王都に入った時から、人の頭の上に草のようなものが見えています」
宰相の目が変わった。表情は動かなかった。しかしその目の奥で、何かが動いた。
「草とな?」
「闇でできた小さな草が、人の頭に生えているように見えます。俺にしか見えていないようです」
「王城の中でも見たか」
「来る途中で何人か見ました」
「なるほど……面白いものが見えるようだな」
宰相は少し考えた。その間が、計算している間だと感じた。
「今から王城を巡回する。ついてきてもらえるか。見えた相手を教えてくれれば、記録できる」
宰相が卓上の鈴を鳴らした。扉が開いて書記官が入ってきた。若い文官だった。
「今から巡回に行く」
宰相が言った。
「え——今からですか」
書記官が少し面食らった顔をした。
「今からだ」
宰相は俺を指さした。
「この者が指さした人間の名前を記録しろ」
「名前を……?」
書記官が俺を見た。俺を見て、また宰相を見た。
「わかりました……と言うべきですか?」
「そうだ」
「わかりました」
書記官は書物を抱えて立った。俺に視線を向けた。
「あの、これでよろしいですか」
「構いません」
3 巡回
宰相が廊下に出ると、すれ違う者が次々と礼をした。メイドが壁際に退いて頭を下げた。文官が書類を抱えたまま頭を下げた。騎士が敬礼した。
俺は宰相の少し後ろを歩きながら、それぞれの頭を確認した。草がある者を見つけるたびに、わからないように書記官に目配せをした。書記官は素早く名前を書物に記録していった。
様々な場所を回った。
執務区画、廊下、広間、給仕の控室——王族の区域には入れなかったが、それ以外の区画を一通り回った。
王城に勤める人間は全部でおよそ三百人程度だとエドワードが教えてくれた。その中で草が見えた人間を数えると、六十人近くになった。偶然にしては多すぎる——何かが起きた時、この数がどう動くのか……。
「全体の二割程度です」
巡回を終えて宰相の部屋に戻った後、俺は書記官が記録した書物を見ながら言った。
「騎士にも、文官にも、メイドにも——まばらに混じっています」
宰相は書物を受け取り、一通り見た。その目が真剣だった。普段の余裕のある顔が、少しだけ別の顔になっていた。
「わかった」
宰相は書物を机の引き出しに入れた。
「明日の昼前に、お主だけここに来てくれ」
「何をするつもりですか」
「明日話す」
宰相は引き出しを閉めながら言った。その顔が、また余裕のある顔に戻っていた。
「今日はゆっくり休め」
4 神殿前の出会い
エドワードの屋敷に向かう途中で、見かけた。
秩序と光の神殿の近くだった。石畳の参道に、白銀の鎧が二つあった。神殿に向かって歩いていた。
一人は銀髪の騎士だった。昼間、騎士団詰所から出てきた男だった。もう一人は——ランエルだった。
エドワードが気づいて足を止めた。
「ご苦労様です、お二人とも」
エドワードが声をかけた。
二人が振り返った。銀髪の騎士が軽く頭を下げた。その動作は簡潔で、しかし礼を失していなかった。
「エドワード殿」
銀髪の騎士が言った。
「夜分に失礼する。神殿に用があるのでな」
「構いません。こちらこそ昼間はあまりお相手できず申し訳ない」
エドワードが言い、俺たちを示した。
「こちらは知人です。榊、ルーシェン、ファルマ、エリシア」
俺は頭を下げた。
「聖騎士十位、神雷のランエルです」
ランエルが言った。
「聖騎士七位、神槍のギディウスだ」
銀髪の騎士が続けた。
名前が出た瞬間、俺はその重みを理解した。聖十騎士の七位と十位が、同時に王都にいた。
ランエルが俺を見た。その目が、昼間の詰所の前から変わっていなかった。何かを確かめようとする目だった。
「以前、どこかでお会いしましたか」
俺は一瞬だけ内側で考えた。ルシエラの試練で戦ったランエルは、ルシエラが作り出した幻だった。現実には影響がないはずだった。現実のランエルとは会っていない。
「カルガリー神聖国には行ったことがありません。会った覚えもないですが」
「そうですか」
ランエルは短く答えた。しかしその目が、納得したとは言っていなかった。
ギディウスがエドワードに視線を移した。
「エドワード殿、王都で悪魔や闇の力に関わることで何かあれば、いつでも言って欲しい。我々が力になる」
その言葉に、わずかな“押し付け”のようなものを感じた。
「ありがとうございます」
エドワードは社交辞令を返した。
「その際はぜひ」
二人は神殿へ歩いていった。その背を俺はしばらく見ていた。
ギディウスの言葉が耳に残っていた。悪魔と闇の力。その二つを並べて言った。
5 エドワードの屋敷の夜
エドワードの屋敷に着いた。
ファルマはエドワードと一緒に食事を取り、以前のように同じ部屋で休んだ。その様子を廊下から少し見た。エドワードが大きな手でファルマの頭を撫でていた。ファルマが子供のような顔で笑っていた。
俺とルーシェンは別の部屋を使った。
光源虫の光が揺れる部屋で、二人向かい合って座った。
「整理しよう」
「そうですね」
ルーシェンが膝の上で手を組んだ。
「まず草だ。王都の市民にも、王城の人間にも、二割程度が持っている。俺にしか見えない、闇でできた草。何のために植えられているかはまだわからない」
「悪魔フォロードゥ・スキャムの仕業だとすれば——策謀を好む悪魔が、人間の中に何かを仕込んでいる……」
ルーシェンは静かに言った。
「草が何かのきっかけで機能するとしたら、それが何かを考える必要があります」
「次にヴェルナート子爵だ。動きはあるが証拠がない。地下墳墓に影が出入りしていて、子爵の屋敷に繋がっている。しかし墳墓を調べても実態が見えない」
「悪魔の力の残渣はあるとセレナが言っていました」
「そしてセレナがいる。フォロードゥ・スキャムを追って王都に来ている。今のところ協力できそうではあるが——」
俺はそこで言葉を切った。
ルーシェンがその先を引き取った。
「信頼はできない、ということですね」
「ああ」
バエルの村での記憶が、また一瞬だけよぎった。俺はそれを静かに受け取って、また押し込めた。
「聖騎士が来ています」
ルーシェンが続けた。
「七位と十位が同時に王都に——本来そうそう動かない存在です。聖十騎士はカルガリー神聖国の特記戦力で、その強さは一般の聖騎士とは格が違う。国を動かすほどの何かが王都にあると判断されたか、あるいは誰かが意図的に動かしたか」
「セレナはその動きを知らなかった」
「神の指示が複数の経路で動いている可能性もあります。あるいは——セレナとは別の目的で来ている可能性も」
俺は光源虫の光を見た。
全部が繋がっているような気がした。草も、子爵も、墳墓も、セレナも、聖騎士も——しかしどこがどう繋がっているかが見えなかった。
「明日、ルーシェンたちは王都を調べてみてくれ。俺は宰相のところに行く」
「わかりました」
ルーシェンは頷いた。その目が、考え続けていた。
「榊さん」
「何だ」
「何かが動き出しているのは確かです。それがいつ表に出るかはわからない。ただ——覚悟だけはしておいた方がいい」
「そうだな」
光源虫の光が、揺れた。
窓の外では王都の夜が続いていた。静かな夜だった。——静かすぎる夜だった。静かな分だけ、その奥にある何かが重く感じられた。
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神槍のギディウス
聖十騎士第七位。銀髪の槍使いにして、徹底した武の求道者。
その槍は光のごとく奔り、一瞬で間合いを貫くとされる。
神聖魔法を得意とする他の聖騎士とは異なり、彼はほとんどそれを用いない。
ただ槍のみでこの位に至った、まさしく“武人”である。




