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湖底の旧知

1 糸目の目覚め

 

 水の中に漂う女性を、俺はしばらく見ていた。

 動かなかった。ただ浮いていた。青い髪が周囲の水に広がり、服の裾がゆっくりと揺れていた。結界の中にいるはずなのに、彼女の周囲だけ水が存在していた。その異常さを頭で理解しながら、しかし目が離せなかった。

 何かがあった。この場所に、この人物に。

 そして——目が開いた。

 開いた、と思う。

 正直、開いたかどうかよくわからなかった。糸のような細い目が、わずかに動いた気がした。それだけだった。まつ毛が少し動いたようにも見えた。

 神秘的な空気が、漂っていた。水の底の静寂と、光の揺れと、青い髪の女性が俺を見ている——その全てが、何か厳粛な場面のような雰囲気を作っていた。

 俺は思わず姿勢を正した。

 女性が口を開いた。

「あー! おったおった!」

「 旦那さん、久しぶりやないですか!」

 空気が、音を立てて崩れた。

 女性が水の中を泳いで俺に近づいてきた。そしてためらいなく俺の腕を掴んだ。

 濡れた。

 セイレーンの指輪が作っている結界の内側なのに、彼女が触れた部分だけ水が来た。袖が濡れた。

「あの——」

「いやー待ちましたわ! ほんまに! 何年待ったと思てます?」

「俺はあなたを——」

「あ、顔見てわからんですか。あー、まあそうですね、しゃあないですね」

 女性はそう言いながら全く傷ついた様子を見せなかった。俺の腕を掴んだまま、水の中をくるくると動いた。

「えっと、あなたは——」

「ロレンです! ロレン・アクアシア! 覚えてないんですか旦那さん! イケズやなぁ!」

 ペースが掴めない。

「ロレン……さん?」

「さん要らんですよ。旦那さんに敬語つけてもろても逆に困ります」

「旦那というのは——」

「比喩です比喩。そんな目しないでください、ウチは冗談が言えへん雰囲気嫌いなんです」

 ファルマが俺の後ろから一歩前に出た。心配と困惑が混ざった顔で、声をかけた。

「あの——失礼ですが、あなたは一体——」

「おお、連れさんたちもいたんですね! かわいいじゃないですか! 旦那さん、ちゃんと人間関係築いてるんですね。えらいえらい」

「えらいって——」

「ほんまによかったです。ウチが心配してたんは旦那さんがひとりで突っ走ることで——」

「俺の話を聞いてくれ」

「聞いてますよ? ウチは人の話をちゃんと聞くタイプです。自分のことはたくさん喋りますけど」

 俺は一度目を閉じた。

 ルーシェンが隣に来て小声で言った。

「……どういう方ですか、これは」

「俺にもわからない」

「ウチのことわからんって言いましたね今」

ロレンが俺たちの方を向いた。その糸目が、不満そうに細くなったように見えた。見えた気がした。糸目なのでよくわからない。

「失礼ちゃいますか」

「聞こえてたのか」

「耳は良いんです。水の中やと音よく伝わるし」

 エリシアが俺の横で静かに言った。

「会話の主導権を取るのが難しい相手ですね」

「そうだな」

「ウチは主導権とか興味ないですよ。ただ自然体で喋ってたらこうなるだけで」

ロレンは俺の腕をまだ掴んだまま、ふわりと水の中を一回転した。

「旦那さん、せっかく来てくれたんやから、まず落ち着いて話しましょ。ここ座れませんけど立ったままでもええですか」

「立ったままでもいい。というかもう少し要点から話してほしい」

「要点ねぇ。要点て難しいんですよ、ウチ話が長いほうやから」

「わかった。わかったから——」

「せめてお茶でも出したかったんですけど、ここ湖底やからお茶は無理で。お水ならいっぱいありますけど」

 俺は思わず片手で額を押さえた。

 

3 ようやく本題

 

 しばらくのやりとりの後——俺が疲れて黙ったタイミングで、ロレンの声のトーンが少しだけ変わった。

 ほんの少しだった。軽快さは消えていなかった。しかし言葉の重みが、わずかに変わった。

「まあ、なんでここにいたかというと」

ロレンは水の中を漂いながら言った。

「散り散りになったあと、どこ行こかなって思たんですけど——まあ色々あって、ここが一番ええかなと」

「散り散りになった?」

「神様とのアレやアレ。ほら、あんまり声に出して言うと聞こえたりしますやん。耳の良い方がおるし」

ロレンは少し天井を見上げた。

「ウチがここにおったのも、まあ、あいつらの目を誤魔化すためいうか。水の底やったら感知されにくいし。ずっと寝てたら存在感も薄なるし」

「つまり——神々の目を避けるために、ここに?」

「そういうことですわ。まあ詳しいことはほら、色々あって色々なんで」

ロレンはそこで急に軽いトーンに戻した。

「旦那さん、詳しいこと聞こうとしてる顔してますけど、今日はそこまで話せる感じちゃうんで。またの機会いうことで」

「またの機会で済む話か——」

「済みますよ。ウチ、逃げへんし」

 妙に説得力があった。

 ルーシェンが俺の方を見た。その目が、――続きは今日じゃなくてもいいかもしれない――と言っていた。俺は頷いた。

「一つだけ聞いていいか」

「どうぞ」

「結界の中にいるのに、あなたが触れると水が入ってくる。あれはなんだ」

「あー」

ロレンは俺の袖を見て、ちょっと申し訳なさそうな顔をした。たぶん。糸目なのでよくわからなかった。

「シャルリアとはお友達やから、ウチのこと弾かないんですよ、指輪が」

「シャルリア——セイレーンの族長か」

「そうそう。あの子とは昔からの縁がありまして。まあ友達ていうか、ウチが一方的に仲良いと思てるだけかもしれんけど」

「確認してもいいですか」

ルーシェンが静かに言った。イヤリングに触れながら。

「誰かいますか?」

 

4 セイレーンの確認

 

 ルーシェンがイヤリングで呼びかけた。

 しばらくして返事があった。

『はい、こちらアムフィ——あ、ルーシェン様! お久しぶりです!』

「アムフィ。シャルリア様はいますか」

『シャルリア様ですか? 少し待ってください——』

 水音のような音が聞こえた。少し間があって、声が変わった。

『ルーシェン。ダホ湖の底に行ったのですか』

「シャルリア様。ロレンという方と会っています」

 短い沈黙があった。

『……ロレンが。目を覚ましたのですか』

「そのようです。この方があなたの友人だと言っていましたが——」

『友人というか——まあ、そういうことにしておきましょう』

シャルリアの声が、少し苦笑しているように聞こえた。

『長い付き合いです。榊様のことも、ロレンは知っている。それだけ伝えれば十分ですか』

「十分です。ありがとうございます」

 通信が終わった。

「上手く流しはりましたねぇ」

ロレンが言った。特に気にした様子もなかった。

「シャルリア、昔からああいう感じですわ。ウチのことをどう思てるかよく分からへんのよね。ツンデレなんですかね」

「そこに感想を求めないでくれ」

「そうですか。まあええです」

 

5 闇の力と水の権能

 

「ロレンの闇の力について聞いていいか」

俺は改めて向き直った。

「ええですよ」

ロレンは腕を組んで、水の中で体を起こした。なんとなく商談に入る前の商人みたいな顔になった。

「ウチの力は水です。水を操る、まあそれだけやったら普通の水使いと変わりませんけど——分解もできます」

「分解?」

「水を気体に分けることできますよ。ここの水、全部分解しようと思たら全部できます。逆に言えば……ええっと確か酸素?と水素?から水も作れますよ」

ロレンは指先に水の玉を一つ作り、それをすぐに消した。

「なんで疑問形なんだ?」

「まあ使い方は色々ありますわ」

ロレンは誤魔化すように目を逸らした。

「これからどうするつもりだ」

「そうですねぇ」

ロレンは天井を見上げた。しばらく黙った後、また軽いトーンに戻った。

「準備してから色々動きますわ。何の準備かいうたら——」

「何の準備だ」

「女の準備いうのはね、旦那さん、男の人には分からへんことがたくさんあるんですよ。何年もここにいたわけですし、まずは色々整えてからでないとウチが納得いかへんというか」

「……わかった」

 これ以上聞いても出てこないと悟った。俺は切り替えた。

 

6 二つの箱

 

「ちょっと待っててください」

 ロレンがそう言って、部屋の奥へ泳いでいった。結界の境界を越えて、水の中に消えた。しばらくして、両手に何かを抱えて戻ってきた。

 箱が二つあった。

 一つは大きかった。大きいどころではなかった。ロレンがそれをどう運んでいるのかわからないくらいの大きさだった。玉手箱のような形をした、装飾のある箱だった。

 もう一つは小さかった。こちらも同じ玉手箱のような形だったが、大きさは小さなダンボール箱程度だった。

 ロレンが二つの箱を俺の前に並べた。

「大きい箱と小さい箱、どっちかひとつ選んでください」

「……え?」

「どっちかひとつです。大きい方が大きくて、小さい方が小さいです」

「それはわかる。中身は何だ」

「開けてのお楽しみです」

 俺はしばらく考えた。

 大きい箱の方が良いものが入っているようにも見えた。しかし大きければいいとも限らなかった。それに持ち運びのことを考えると——。

「小さい方にする」

「さすが旦那さん、物事の本質が見えてますな」

ロレンが満足そうに頷いた。糸目が更に細くなった気がした。

「地上に着くまで開けないように、ということだけ伝えておきますね」

 その言葉に、俺は反射的に口から言葉が出た。

「開けたらじいさんになるんじゃないか」

「え……?」

 ロレンが固まった。

 初めて、ロレンが会話の流れで固まった。

「……なんですかそれ」

「俺の世界の話だ。気にするな」

「いや、気になりますやん。じいさんになる箱って何ですか」

「浦島太郎という話があって——」

「うらしま……」

ロレンは首を傾けた。その顔が、本当にわからないという顔だった。

「まあ、まあでも——」

ロレンはしばらく考えた後、意味深な顔になった。

「開けない方がええことはあるかもしれない、ということは言えますね」

「はぐらかすな」

「謎は謎のままの方が価値がある場合もあるということです」

 俺は諦めて箱を受け取って、マジックバッグに入れた。ルーシェンの研究所で開けよう、と内心で決めた。

 

7 シャークちゃん

 

「そろそろ出る」

俺は言った。

「そうですか。また来てくださいね」

ロレンは手を振りながら言った。

「ああ、一つ聞き忘れた」

俺は振り返った。

「外に魔物がいる。あの広間を通らないと出られないが——」

「シャークちゃんですか」

「……シャークちゃん」

「そう呼んでるんです、ウチが。かわいいでしょ」

「全然かわいくない。高さ二メートルの角があって——」

「そんな子でも名前をつけると愛着が湧くもんですよ」

ロレンは笑った。

「大丈夫です。ウチの匂いがついたから、旦那さんたちのこと今は敵やと思てないはずです」

「匂い?」

「ウチが触ったとこ、濡れたでしょ。あれです」

 俺は袖を見た。確かにまだ少し湿っていた。

「それがどう作用するのかは聞かないでおく」

「賢明です」

ロレンがニコリと笑うが目は笑ってなかった。

「準備ができたら連絡すると言っていたが——どうやって」

「あなたのハートに直接届けますわ」

 俺はロレンを見た。ロレンは糸目のまま、真顔で言っていた。真顔なのかどうか糸目なのでよくわからなかった。

「……具体的な方法を聞いていいか」

「それが分かったら苦労しませんわ」

「意味がわからない」

「まあ、ウチのことを思い出せば繋がりますよ。たぶん」

 これ以上聞いても出てこないと判断した。俺は向き直って歩き始めた。

「旦那さん」

「何だ」

「また——来てくださいね」

 今度の声は、少しだけ違う響きを持っていた。軽快さの奥に、何か別のものがあった。しかし俺がそれを確かめようとした時には、ロレンはもう水の中に漂い始めていた。

 

8 シャークちゃんの寛容

 

 広間の扉を、俺は慎重に開けた。

 結界が広がった。水の中に入った瞬間、視界が開けた。

 魔物がいた。

 でかかった。相変わらず。あの角も健在だった。

 しかし魔物は俺たちを見ても、突進してこなかった。ゆうゆうと広間を泳いでいた。尻尾がゆっくり動いて、俺たちの側を一度通り過ぎた。その目が俺を見た。しかし攻撃の気配がなかった。

「本当に大丈夫そうですね」

ファルマが信じられないという顔で言った。

「シャークちゃんだからな」

「シャークちゃん?」

「名前だ」

「あ、ロレンさんが言っていた……」

ファルマは魔物を見た。

「……かわいくないですね」

「俺もそう思う」

 俺たちは広間を通り抜けた。シャークちゃんは一度だけこちらを振り返り、それからまた泳ぎ始めた。

 

9 帰路と夜明け

 

 帰りは風踏の速度調整がうまくいった。

 行きほどの無茶な速度は出さなかった。それでも十分に速かった。湖底の地形を読みながら、ルーシェンから遅れない速度を維持した。

 ファルマも今度は悲鳴を上げなかった。

「行きよりだいぶ楽です」

ファルマが言った。

「慣れた」

「榊様が慣れたというか、速度が落ちているというか——」

エリシアが後ろからボソッと言う。

「どちらでもいいだろ」

俺は誤魔化すように先に進む。

 港に上がった時、空の端が白み始めていた。まだ巡回の騎士は動いていなかった。物陰を移動して、宿に戻った。

 部屋に入って横になった。

 頭の中にロレンの声が残っていた。軽快で、はぐらかしばかりで、ツッコミが追いつかなかった。しかしその奥に何かがあることは感じていた。

 準備できたら連絡するね——どうやって連絡してくるのかが全くわからなかった。しかしロレンが言うなら、何かしらの方法があるのだろうと、妙に信じていた。

 目を閉じた。

 

10 河導の定期便

 

 朝になった。

 軽く食事を取り、港に向かった。

 リノアの港には、複数の乗り場があった。そのひとつに、召喚獣が繋がれていた。

 イルカに似た形の召喚獣が、数頭並んで水面に浮いていた。頭部が少し丸く、体が青みがかった灰色をしていた。それぞれがロープで連結されており、その先に平底の船が繋がっていた。

 河導だった。

「サクラモント行きですか」

受付の男が言った。

「ちょうどいい時間です。乗ってください」

 マーキングを確認され、料金を支払い乗り込んだ。

 河導たちが動き出した。ロープが張って、船が引かれ始めた。速度が上がった。川面を切る感触が伝わってきた。

 サンホーキン川を遡る風景が広がった。川の両岸に緑が続き、朝の光が水面に当たって細かく散っていた。

 ファルマが川の流れを見ながら言った。

「相変わらず気持ちいいですね」

「そうだな」

 俺はマジックバッグの中の箱を少し意識した。中身は開けるまでわからない。ルーシェンの研究所で開けよう、という判断は変わらなかった。

 川の向こうに、街の輪郭が見え始めた。

 サクラモントまで、あと少しだった。

 




水操すいそう


ダホ湖の遺跡に眠っていたロレンが操る闇の力。水を自在に操るだけでなく、その性質そのものへ干渉する。

水を酸素と水素に分解し、逆に水を生み出すことも可能とされるなど、一般的な水魔法とは一線を画す能力である。

他にも応用はあるようだが、本人は詳細をはぐらかしてばかりで、どこまでできるのかは不明。

……聞き出せたとしても、素直に教えてくれるとは限らない。


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