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湖底の遺跡

1 戦場跡の帰還

 

「あそこに着陸します」

 着陸した場所に、見覚えがあった。

 地面が抉れていた。岩が砕けて散らばり、草が焼けた跡が残っていた。地泳巨獣と戦った場所だった。

あの戦いから、どれくらい経っただろう。荒れ果てた地面の隙間から、細い草が顔を出していた。砕けた岩の割れ目に、小さな花が一輪咲いていた。傷跡はまだ消えていなかったが、大地はゆっくりと戻ろうとしていた。

 俺はその景色をしばらく見た。

生き物というものは、どんな傷を負っても元に戻ろうとする。それは大地でも、人でも同じなのかもしれなかった。

「行こう」

 飛行機を片付けて、フレズナールに向けて歩き始めた。

 

2 英雄扱いとその困惑

 

 特に何も起きなかった。

 魔物には遭遇せず、道も崩れていなかった。フレズナールの城壁が視界に入ってきた時、見張り台の騎士がこちらを見た。

「おい——あの方々は」

 声が届いた。以前、街を出る時に声をかけてきた騎士だった。城壁の上から俺たちを確認して、大きく手を振った。

「地泳巨獣を討ってくださった方々だ! 無事のご帰還を!」

 それだけで十分だった。

 門が開いた。

 街に入った瞬間、人が集まってきた。

 騎士の声を聞いていたのか、それとも噂が先に広まっていたのか。屋台の主人、通りを歩いていた老人、子供——次々と人が集まり、口々に言葉をかけてきた。

「本当にありがとうございます」

「あの化け物を倒してくれたおかげで山の見張りが楽になった」

「よかったら一杯どうです」

「うちの料理を食べていってくれ」

 俺は正直に言えば、こういう状況が少し苦手だった。感謝の言葉自体は嬉しい。しかしそれが一度に大勢から向けられると、どう受け取ればいいかが分からなくなる。適切な返し方が見つからないまま、人の波の中でもみくちゃにされた。

「報酬はもう受け取っています。十分です」

「そういうことじゃないんですよ! 気持ちの問題で!」

 ファルマは人波に揉まれながら、それでも一人ひとりに丁寧に頭を下げていた。エリシアは押されるたびに静かに斥力で距離を保っていた。ルーシェンが俺の隣で苦笑していた。

「リノアに向かわなければならないんです」

俺は人波に向かって声を上げた。

「また来ます」

「また来てくれるのか!」

「絶対来てくれよ!」

 喜ばせてしまった。また来ると言った以上、来なければ嘘になる。そう思いながら、俺は何とか人波を抜けて乗合馬車の乗り場まで辿り着いた。

乗合馬車の受付には、騎士が一人立っていた。

 街の喧騒が嘘のように、受付は静かだった。騎士は書類に目を落としたまま、俺たちを一瞥して言った。

「運が良かったですね。あと少しで出るところでした」

 感謝も驚きもない、完全に事務的な声だった。それが逆に落ち着いた。

 マーキングを受けた。胸のペンダントにまた魔力が浸透する感覚があった。期限は三日間だという。

「出発します。乗ってください」

 馬車に乗り込むと、背後から街の人々の声が飛んできた。

「また来てくださいよ!」

「待ってますよ!」

 馬車が動き出した。

 俺はシートに背を預けて、一度息を吐いた。ルーシェンが向かいの席でわずかに肩の力を抜いた。

「悪い気はしないのですが」

ルーシェンが言った。その口元に、小さな苦笑が浮かんでいた。

「疲れた」

俺は率直に言った。

「わかります」

ファルマが頷いた。

「一人ひとりの言葉は嬉しいのですが、全部一度に来ると——」

「処理が追いつきません」

エリシアも珍しく疲れたような表情をしていた。

「感謝の言葉の最適な受け取り方というのは、私にはまだ難しいです」

 四人でしばらく黙って揺れた。

 穀倉地帯が広がっていた。地平線まで続く緑の畑が、朝の光を受けて金色に変わろうとしていた。この景色のために、フレズナールの騎士たちが山を守り続けているのだと思った。

 

3 リノアの街

 

 昼を少し過ぎた頃、リノアに着いた。

 相変わらずの街だった。

 活気はあった。屋台は並び、人は歩き、笑い声も聞こえた。しかしその賑やかさの中に、何かが足りなかった。人々の動きが、少し揃いすぎていた。目が合った時の笑みが、少し均一すぎた。

 管理されている街というのは、こういう空気を持つのだと改めて思った。何も悪いことをしていなくても、何か見られているような感覚が消えない。

「また来ましたね」

ファルマが街を見渡しながら言った。その声は明るかったが、目は慎重だった。

「ダホ湖の遺跡には夜に行くべきだな」

昼間は人が多すぎてどうしても人目に付く。

「昼間に湖に入るのは目立つ」

「賛成です」

ルーシェンが頷いた。

「それまでは宿を取って休みましょう。巡回の騎士に目をつけられないよう、目立った行動は避けた方がいいですね」

管理された街の食べ物は、どこか整いすぎていた。

味は悪くない。だがフレズナールで押しつけられた手料理の温かさとは、どこか違っていた。

 宿を取り、部屋に入った。横になると、馬車の揺れと街の喧騒の疲れが一度に来た。

 夜まで、待った。

 

4 湖底への道

 

 夜のリノアは昼より静かだった。

ただ以前宿から聞こえてきたゴリ、ゴリ、と——何かを攪拌するような音は遠くから聞こえてくる。

「な、なんでしょうかあの音……」

ファルマが気味悪げに辺りを見回す。

「以前宿からも聞こえてたな」

「穀倉地帯の方から聞こえているようですが……」

ルーシェンは穀倉地帯の方角を見ていたが、湖の方に視線を戻す。

「今は湖に行くのが先決ですね」

 巡回の騎士の足音が、規則的に石畳を叩いていた。俺たちはその間隔を測りながら、物陰を移動してダホ湖に向かった。

 港に出た瞬間、空気が変わった。

 昼間の街の喧騒が完全に消えていた。湖面が月明かりを受けて揺れていた。水の匂いと、湖の静けさだけがあった。人の気配は、巡回以外にはなかった。

「ここからだ」

 俺はセイレーンの指輪を装着した。金属が冷たかった。

 湖に足を踏み入れた。

 指輪から半径五メートルの球体の中で、水が押しのけられた。湖底が視界に広がった。暗いはずの湖底が、クリアに見えた。水草が揺れ、岩が並び、遠くに湖底の地形が見えた。

 そして——闇の力を感じた。

 以前来た時よりも鮮明に感じた。共鳴の理解が深まったためかもしれなかった。何かが、遥か深いところにあった。

「かなり距離がありそうですね」

ルーシェンが湖底の先を見渡しながら言った。その目が、距離を測っていた。

「歩いていくのですか」

「風踏で行く」

感じる距離を歩いていったら朝になってしまう。

「ただ——少し試したいことがある」

「試したいこと、とは」

エリシアが首を傾げた。

「共鳴を、風踏に使ってみる」

俺とファルマが風踏を一体ずつ召喚した。エリシアが俺の肩に捕まった。

 俺は風踏に意識を向けた。

 小さな召喚獣の体に、闇の力を流し込む。纏わせるのではなく、内側に与えるように。アルセインの塔で剣に光の玉を共鳴させた時の感覚を手がかりにしながら。

 風踏が変わった。

 体の輪郭が少し変わった気がした。吹き出す風の強さが変わった。明らかに、今までとは別物だった。エリシアが俺の後ろで肩に掴まる。

「よし、行くぞ……!」

 進めた瞬間、加速が来た。

 湖底の岩が視界の端を流れた。前から水の抵抗が来るはずなのに、結界の中では水がなく、地上を走っているのと同じだ。

「榊様、右です!次は左!」

俺の後ろのエリシアが指示してくれる。

速度がどこまで上がるかわからないまま、方向だけを必死に制御した。岩が正面に来た。逸れた。また岩。また逸れた。

 後ろでファルマの息が聞こえた。

「は——速いっ——岩、岩!」

「エリシアが見えてる!とにかく俺の後ろで動きを合わせるんだ!」

「見えてますか!?本当に、今のは!——危なっ!」

 ルーシェンの姿が後ろに消えた。風魔法で飛ぶルーシェンの速度では追いつけなかった。

 速度を落とす気はなかった。なぜかというと、落とし方がまだわからなかった。

 共鳴の強さを下げることで速度が落ちた。俺はその感覚を覚えながら、湖底の地形を読み続けた。遠くに何かの構造物が見えてきた。崩れた石造りの壁の欠片が、湖底に散らばっていた。

 遺跡だった。

 速度を落としながら、入口の前で止まった。

 ルーシェンが遅れている。しばらく待つ必要があるな。

ファルマは風踏を降りて、膝に手をついて息を整えていた。

「はあ、はあ……。榊さん、あれは少し心臓に悪いです……」

「次はもう少しゆっくりにする……」

「ぜひそうしてください」

ファルマの目は真剣だった。

 ルーシェンが遅れて到着した。その顔が、珍しく少し崩れていた。

「置いていかないでください」

ルーシェンは息を整えながら言った。

「最高速度はどのくらいでしたか」

「体感で百キロ前後だと思う」

「……風踏の最高速度の倍以上ですか」

ルーシェンは額に指を当てた。

「共鳴の強化範囲が、想定より広いですね……」

 

5 湖底の番人

 

 遺跡の大半は崩れていた。

 壁が倒れ、天井が落ちていた。それでも通れる部分を選びながら進んだ。闇の力を感じる方向は、一定していた。深い方向だった。

 しばらく進むと、床に穴があった。

 下へ続く入口だった。傾斜のある通路が、さらに深い場所へ向かって続いていた。

「ここだ。この下から闇の力を感じる」

 通路を下った。傾斜が徐々にきつくなった。両側の壁に、かつて何かが彫られていた形跡があった。文字か模様か、判別できないほど風化していた。

 しばらく降りると、広い空間に出た。

 天井が高かった。湖底の遺跡の中に、これほどの空間があるとは思っていなかった。

 そしてそこに、何かがいた。

 最初は影のように見えた。しかし動いた。

見た目はサメに近かった。

 頭部に、刃のように薄い角が生えていた。角の長さだけで一メートルを超えていた。体長は七メートル以上あった。それが広場の水の中を、音もなく旋回していた。

 俺たちに気づいた。

 目が変わった。旋回が止まった。

「来るぞ!」

突進だった。

 結界に入った瞬間、水がなくなって泳げなくなったはずだ。しかし魔物の勢いは止まらなかった。地面を削りながら、角を前に突き出したまま通り抜けた。振り返った時にはもう水の中に戻っていた。

 速い。

 結界の中から外に出た瞬間、また旋回が始まった。俺は次の突進のタイミングを読もうとした。しかし軌道が読めない。どの角度からくるかが直前まで分からなかった。

 来た。

水が爆ぜた。

 横に跳んだ。角が結界の外側ギリギリを通った。地面が割れた。衝撃が足元から来て、体が浮いた。

「魔法が当たりませんね……!」

ルーシェンが後退しながら言った。口調は冷静だったが、その目が険しかった。

「水の中ではどうしても速度が落ちます。風の刃も岩の槍も躱されます」

俺も何とか切りつけようとするが尽く失敗していた。

「くそっ、衝撃が厄介だ!」

突進を待って切りつけようとしても、地面にぶつかる衝撃が強くて近づけない。

 またきた。

 今度は角を結界の外から横に振った。角が空気を切る感触があった。結界の内側に本体が入らない位置であったが、刃で切り裂かれそうになる感覚があった。

 エリシアの斥力のフィールドで角が弾かれた。しかし衝撃でエリシアが後退した。

「まともに受けるとダメージを受けますね……」

「あそこに扉が……!」

ファルマが指さす。俺の後ろの方向だ。

「広場の奥に、扉があります!」

 視界の端で確認した。確かにあった。崩れずに残った石造りの扉が、広場の反対側にあった。

 魔物が俺たちが扉に向かおうとすることに気づいたように、急に動きが変わった。攻撃の速度が上がった。間隔が短くなった。

 近づかせたくないのだ、と理解した。

「三人は扉へ向かってくれ!」

俺は扉を指さす。

「俺が魔物を止める」

「榊さん——」

ファルマが振り返った。

「考えがある。行くんだ!」

 俺は剣を構えた。

 闇の力を集中させた。水の力との共鳴を、最大まで引き上げた。剣の色が変わった。黒と青が混ざり合い、刃の輪郭が揺れた。

 魔物が突進してきた。

「はあっ!」

 正面から受けた。

「くっ……!」

 腕に衝撃が来た。足が後退しながら、それでも剣を押し進めた。闇と水が合わさった刃が、魔物の側面に食い込んだ。手に、確かな感触があった。深くは入らなかったが、傷をつけた。

 魔物が通り過ぎようとした。その速度が、わずかに落ちていた。

 今だ。

「鎖蔦狼!」

 鎖蔦狼を召喚した。

 召喚と同時に、蔦に闇の力を共鳴させた。蔦が黒く変色した。それが魔物の体に巻きついた。魔物が暴れた。蔦が強く引っ張られたが切れなかった。

 しかし長くは持たない。

 魔物が拘束を引き剥がそうと身をよじり始めた。俺は扉へ走った。ルーシェンとファルマとエリシアが扉を押し開けていた。

「榊様こっちです!」

後ろで魔物が拘束を抜け出したのを感じる。

 扉の隙間に飛び込んだ。

 エリシアが内側から扉を閉めた。

 その直後、衝撃が来た。

「うおっ!」

激しい音とともに扉に何かがぶつかり、体が吹き飛ばされた。石の壁に背中が当たって、息が詰まった。

 扉は持った。

 ぶつかる音が止んだ。

 俺は壁に背をつけたまま、息を整えた。ファルマが傍に来て俺の状態を確認した。その顔が青ざめていた。

「大丈夫ですか」

「大丈夫だ」

「手が震えています」

「少ししたら落ち着く」

 俺は自分の手を見た。確かに震えていた。最大出力の共鳴の反動だろうと思った。数分すれば落ち着くはずだ。

「進もう」

 

6 水の中の女

 

 扉の先は通路だった。

 さっきより傾斜はなかった。真っ直ぐに奥へ続いていた。闇の力の感覚が、ここへ来て最も強くなっていた。

 しばらく進むと、広い部屋に出た。

 天井から光が落ちていた。どこからくる光かわからなかった。しかしその光が、部屋の中央を照らしていた。

 女性がいた。

まるで眠っているように。

 水の中に浮いていた。青いワンピースのような服をまとい、腰まで届く青い髪が水の中に広がっていた。目を閉じていた。

 俺はセイレーンの指輪を確認した。結界は機能していた。結界の範囲内の水は確かに弾かれていた。

 しかし——女性の周囲だけ、水が弾かれていなかった。

 結界の中にいるはずなのに、女性を取り巻く水だけが、そのままそこにあった。

 俺は近づいた。女性は動かなかった。目を閉じたまま、ただ浮いていた。

 その顔を見た。

 その顔と、青い髪と、水を無効化する結界を貫く存在感。

 俺はしばらく、その女性を見つめていた。

その姿に、見覚えがあるような気がした。

 




ダホ湖


穀倉地帯を支える湖畔都市リノアを抱く巨大湖。サンホーキン川の源であり、物流と漁業の要でもある。

水は驚くほど澄み、晴れた日には遥か水底――百メートル以上下に沈む遺跡の影が、水面からでも確認できる。

その遺跡は何なのか。誰が、いつ築いたものなのか。

調査は幾度も試みられたが、深すぎる水底はすべてを拒み続けている。


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