雲上の王と豆の木の話
1 魔力の雲道
雲の上に立っているという事実を、体がまだ受け入れきれていない。
足元を踏むたびに、わずかに沈む感触がある。しかし沈み切らない。綿を踏んでいるような、それでいて確かな抵抗がある。白い視界の中に、遠くの宮殿の輪郭だけが見えていた。
エリシアが膝をついて雲の表面に手を当てていた。目を閉じて、何かを感じ取るように静止していた。
「魔力が含まれています」
エリシアが立ち上がりながら言った。
「この雲は普通の雲ではありません。魔力で密度と硬度を得ているようです。それに加えて——下から常に風が吹き上げています。魔力を含んだ風が下から支えることで、この雲全体が浮遊しています」
「魔力を帯びた雲が風で浮いている、ということか」
「正確には、魔力によって変質した雲と上昇風の組み合わせです。ただ——」
エリシアは周囲を見渡した。
「乗れる雲と乗れない雲があります。踏み込む前に確認が必要です」
「先導してくれ」
「はい」
俺は飛行機を片付けた。荷物にしまい込むと、身一つになった。エリシアが先頭に立ち、一歩ごとに足元の雲の密度を確かめながら歩き始めた。踏んで沈みそうな箇所を避け、硬い部分を選んで進む。その後を俺、ルーシェン、ファルマと一列で続いた。
宮殿は見えていた。
だが、いつまで歩いても近づかなかった。
2 雲の巨人の童謡
「ルーシェンさん」
ファルマが歩きながら言った。
「あれって——本当に誰かが住んでいるのでしょうか」
「伝承があります」
ルーシェンは前を見たまま言った。
「雲の上の宮殿と、そこに住む巨人の。ただ童謡の域を出ないもので、実在するとは誰も本気にしていなかった」
「あ、それなら私も幼い頃に聞いたことがあります」
ファルマが言った。小さく目を細めた。記憶の中を探っているような顔だった。
「お母さんが寝かしつけの時に——雲の上には大きな人がいて、その宮殿まで辿り着いたものには褒美を与える、という話でした。まさか本当にあるとは」
「具体的にどんな褒美かは、話によって違うらしいです」
ルーシェンが続けた。
「あくまで伝承の域なので、細部は伝わった地域によって変わっています。ただ共通しているのは——辿り着いた者に何かを与えるという点だけです」
「何かを、ね」
俺は前方の宮殿を見た。
「そもそもあそこに着けるかが先の話だが」
一歩進む。また一歩。
宮殿が大きくなった気がした。
しかし大きくなったわりに、近づいている気がしなかった。
「……距離感がおかしくないか」
俺が言うと、エリシアが立ち止まって宮殿を測るように見た。
「おかしいです。既にかなりの距離を歩いているはずですが、宮殿の見え方がそれに対応していません」
「なぜだ」
「あの宮殿が——」
エリシアは少し考えてから言った。
「おそらく、私たちが想定しているよりも遥かに大きい。大きすぎるために、近づいても視覚的な変化が緩やかになる。山に向かって歩いているのに、なかなか大きくならないのと同じ原理だと思います」
歩き続けた。
それでもやがて、宮殿は大きくなった。
3 宮殿の門
辿り着いた時、俺たちは全員しばらく動けなかった。
門だけで、高さが二十メートルを超えていた。門の向こうに続く建物の壁が、見上げても頂点が見えないほど上に伸びていた。白い石材——いや、石ではないかもしれない。雲と同じ白さを持ちながら、光の当たり方が石に近かった。しかしその質感は雲の柔らかさも持っていた。
「壁の材質を確認させてください」
ルーシェンが壁に手を当てて目を閉じた。しばらくして、首を振った。
「わかりません。魔力は感じますが——何でできているかの答えが出ない。雲と同じ成分を含みながら、石よりも硬い。それ以上は」
「解析不能か」
「はい。珍しいことですが」
ルーシェンは手を離した。その顔に、悔しさというより純粋な困惑があった。
門の前に立った。
「とりあえず、声をかけてみよう」
「声をかけてどうするんですか」
エリシアが首を傾げた。
「開けてもらう」
「……それで開くかどうかは」
「試してみないとわからない」
俺は門に向かって声を上げた。この高さでは叩くことすらできない。ただ、できる限り遠くまで届くように。
「雲の宮殿の主に申し上げます。旅の者四人、お目にかかりたく参りました。門を開けていただけますか」
しばらく何も起きなかった。
ファルマが俺の袖を引いた。
「榊さん——」
その時、門が動いた。
音があった。軽い素材でできているはずなのに、厳粛で重い音だった。まるで世界の蓋が開くような音が、雲の上に響いた。門が内側に向かって、ゆっくりと開いていった。
4 ジャックと豆の木
中に入った。
王宮のような作りだった。天井が高く、柱が等間隔に並び、廊下が奥へと続いていた。全てのスケールが大きかった。柱の一本が、俺たちが四人で抱えても囲めないほどの太さだった。
しばらく歩くと、前方の扉の隙間から音が聞こえてきた。
「……音楽?」
ファルマが足を止めた。
「聞こえますね」
ルーシェンが扉の方に目を向けた。
「弦楽器の音です。ハープに近い」
「どこから——誰が演奏しているのですか」
エリシアが扉を見た。
扉の前まで進んで、俺はそっと押した。扉は驚くほど軽かった。隙間から中を覗くと、浮かんでいた。ハープが、誰にも触れられずに空中に浮かびながら、その弦を動かしていた。音楽が部屋の中に満ちていた。
「自動で演奏している」
「魔道具ですね」
ルーシェンが静かに言った。
「ただ、この規模の精度は——相当なものです」
廊下を奥へ進む途中、中庭に出た。
中庭の中央に、巨大な鳥がいた。
鶏に似ていた。しかし高さが2メートルを超えており、羽の色が金に近い白だった。それがのんびりと中庭を歩き回り、地面をついばんでいた。俺たちが通り過ぎても、ちらりと見ただけで興味を示さなかった。
「鶏ですか、あれは」
ファルマが首を傾けた。
「鶏に見えるな」
「卵は……」
エリシアが少し口ごもる。
「何の話だ」
「あのサイズなら卵もかなりの——」
「今は先に進もう」
中庭を抜けて廊下に戻った。歩きながら、俺はふと口に出してしまった。
「ジャックと豆の木みたいだな」
「ジャック?」
ルーシェンが俺を見た。
「何ですか、それは」
「俺がいた世界の話だ。豆の木が空まで伸びて、その上に巨人の城があって——少年が忍び込んで、巨人の宝を盗む話だ」
「盗む?」
ルーシェンの眉が上がった。
「子供向けの話だ。主人公の少年が巨人のところに何度か忍び込んで、金の卵を産む鶏とか、黄金のハープとか——」
「金の卵を産む鶏」
エリシアが振り返った。
「先ほどの鳥が」
「関係ないだろう。話の中の空想上のものだ」
「巨人はどうなるのですか」
ルーシェンが続きを促した。
「最終的に、少年が豆の木を切り倒して——落ちてきた巨人は死ぬ」
「巨人が死ぬ話を、子供向けに?」
「民話なんてそういうもんだ」
そう言いながら歩いていると、廊下が広間に繋がった。
5 謁見の間
扉の横に、鎧が立っていた。
高さ四メートルはある鎧だった。槍を構えて、扉の両脇に一体ずつ配置されていた。中身が入っている気配はなかった。しかし兜の細いスリットから、赤い光が俺たちを見ていた。
「何用か」
低い声だった。声というより、空気の振動に近かった。
「偉大な雲の主に謁見したく参りました」
俺は言った。
鎧は少しの間、動かなかった。赤い光が俺たちを一人ずつ見た。
「我らが王に失礼のないよう」
そう言って、鎧が扉に手をかけた。重い扉が、内側に向かって開いた。
中に入った。
謁見の間は、それまでの廊下や中庭とは異なる空気を持っていた。
天井が見えなかった。柱が左右に並び、その奥に玉座があった。玉座は白い石材でできており、その上に——いた。
座っていても、その大きさがわかった。白いトーガを纏い、灰色がかった白い顎鬚を蓄えた、老人の顔をした巨人だった。目を閉じていた。しかしその存在感が、部屋全体を満たしていた。
俺はその存在感を体で受けた。敵意ではなかった。ただ、そこにいるというだけで空気の密度が変わるような圧があった。戦意が、吸い取られるような感覚があった。
それでも足を動かした。前に進んで、玉座の前で膝をついた。後ろでファルマが同じようにした。ルーシェンも、エリシアも、俺に倣って膝を折った。
「よく来た」
声が来た。
音量は大きくなかった。しかしその声が部屋の隅々まで届いた。
「以前の来客から、百年以上が経つ」
巨人がゆっくりと目を開けた。その目が俺を見た。
「ほう……お前は……」
何か懐かしいものを見る目だった。
「随分と長く寝ていたな」
「……」
俺は一瞬、意味がわからなかった。
「それは、どういう意味でしょうか」
「わからぬなら、よい」
巨人は表情を変えなかった。しかしその目の奥に、かすかな色があった。何かを知っている者が、あえて黙っている時の色だった。
俺はそれ以上聞くことができなかった。
「退屈しておった。
百年も同じ景色を見ておると、世界が止まったように感じる。
何か面白いものを見せてみよ。そうすれば褒美を考えよう」
6 豆の木の話
俺は立ち上がり、三人に近づいた。声を落とした。
「何か面白いものを見せれば褒美をくれるそうだ」
「面白いもの」
ルーシェンが顎に手を当てた。
「この方が満足するようなものとなると——生半可なものでは足りないと思います。魔法の披露程度では退屈させるだけでしょう」
「じゃあ何が——」
「そこの者」
巨人の声が上から降ってきた。
俺たちは全員、動きを止めた。
「先ほどの話を聞かせよ」
「先ほどの——」
「豆の木の話だ」
廊下の会話まで、聞こえていた。
俺は背筋に冷たいものを感じた。この宮殿全体が、巨人の耳として機能しているのかもしれなかった。
しかし同時に、困った。
ジャックと豆の木は——巨人が最終的に死ぬ話だ。この存在の前で、巨人が馬鹿にされ、少年に宝を盗まれ、豆の木から落ちて死ぬ話を語るのは。
俺はルーシェンを見た。ルーシェンは小声で言った。
「相手から求められた以上、話すしかないと思います」
「……そうだな」
俺は玉座に向き直った。
「かしこまりました。ただ——この話は、巨人を良く描いているとは言えません。それでも聞かれますか」
「かまわぬ」
俺は話し始めた。
貧しい少年ジャックのこと。母親に売るよう言われた牛が、不思議な豆と交換されたこと。その豆から空まで届く木が生えたこと。木を登った先にあった巨人の城のこと。
巨人は静かに聞いていた。
金の卵を産む鶏のこと。黄金のハープのこと。巨人が気づいて追いかけてくる場面。俺は多少躊躇いながらも話した。ジャックが豆の木を切り倒したこと。落ちてきた巨人が、地面に叩きつけられたこと。
話が終わった。
沈黙があった。
それから——笑い声が来た。
大きかった。部屋の壁が振動した。柱が揺れた。俺は無意識に耳を押さえた。足元の床が震えて、体がふらついた。笑い声だけで、体に衝撃が来た。
やがて笑いが収まった。
巨人は目の端を、大きな指で拭った。
「面白い」
巨人が言った。声が上機嫌だった。
「我を称える話は何度も聞いた。我が知恵者で力者で何者にも勝ると——そういう話ばかりだ」
「はあ」
「巨人をバカにする話は、これが初めてだ」
巨人は口の端を上げた。
「悪くない」
7 褒美と雲の食事
「褒美の件だが」
巨人は玉座の肘掛けに腕を乗せたまま、俺たちを見た。
「危機があれば、一度だけ力を貸してやろう」
俺の中で、正直に言えば、少し違うものを期待していた。何か持ち帰れるものを。しかしルーシェンがすぐに言った。
「それはとてつもないことです、榊さん」
小声ではあったが、確信のある声だった。
「この方の力は嵐を操り、天候を支配する。一度でも助力の約束を得られるというのは——私が知る限り、この世界の誰も得たことのないことのはずです」
俺は改めて玉座を見上げた。
百年以上、来客がいなかった存在。その力が、一度だけ俺たちのために使われる。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「この上ない褒美です」
「硬くならずともよい」
巨人は言った。
「昼食を食べていくがよい」
巨人が手をかざした。
何もなかった空間に、テーブルが現れた。雲と同じ白さを持つ素材でできたテーブルが、俺たちのサイズに合わせて出現した。椅子も、皿も、全て同じ白い素材だった。まるで雲そのものを固めたような——と思ったら、料理も同じ色をしていた。
スープが白かった。肉が白かった。野菜に見えるものも、全て白かった。
俺はそれを見て、内心で少し考えた。食べられるのだろうかと。
しかし巨人が静かに頷いているのを見て、俺は席についた。
スープから始めた。
一口飲んだ瞬間、驚いた。
濃かった。見た目の白さから想像できないほど、深みのある味だった。何の出汁かわからなかったが、それが全て溶け込んでいるような味だった。
肉を切った。切り口から、透明に近い汁が滲んだ。口に入れた瞬間、柔らかさと旨味が来た。雲でできているとしか見えないものから、どうしてこれほどの味が出るのかが全くわからなかった。
「うまい」
思わず声に出た。
「榊さん——」
ファルマがスープを一口飲んで、皿を見た。それからまた飲んだ。
「何ですか、これ。見た目と——全然違う」
「不思議な味ですね」
ルーシェンが肉を食べながら言った。
「材料の正体が全く見当たらない。しかし——」
その目が、珍しくほころんだ。
「これはおいしい」
エリシアは黙って食べていた。しかし途中で俺を見て言った。
「雲でできているとしたら、雲はこんな味がするのですか」
「普通の雲に味はないぞ」
「ではなぜ」
「わからない」
エリシアはしばらく考えてから、また食べ始めた。
食事が終わった時、巨人が指を一振りした。テーブルも椅子も皿も料理も、全て消えた。
「行くがよい」
8 消えた宮殿
宮殿を出た。
来た時と同じように、エリシアが先頭に立って乗れる雲の道を選びながら進んだ。飛行機を取り出して、アルセインの塔の方角を確認した。
「あちらの方向です」
エリシアが指さした。
「雲の隙間から降りられそうな場所も——少し進んだところにあります」
飛行機に乗り込んで、滑走を始めた。雲の上を走り、離脱した。
空に出た瞬間、俺はふと後ろを振り返った。
宮殿がなかった。
さっきまであれほど大きく見えていた白い宮殿が、どこにも見えなかった。雲だけがあった。どこまでも続く、白い雲の海だけがあった。
俺はしばらく後ろを見ていた。
消えた。いや、最初から俺たちが会いに行く時にだけ、存在していたのかもしれなかった。
飛行機は高度を下げながら、雲の海の下に向かって進んでいった。
くものうえには
おおきなきょじんさん。
きょじんさんは
そらのうえから
みんなをやさしくみまもってる。
よいこにしていたら
きょじんさんは
ごほうびをくれるの。
すてきなふくや
おいしいたべもの。
でもね
わるいこには
あえないんだって。
だから
よいこにしていましょうね。




