最果て塔
1.塔に向かって
天落山の頂上から見る最果ての塔は、想像以上に苛烈な様相を呈していた。
岬の先端、切り立った岩山の群れに囲まれるようにして、それは聳えていた。漆黒に近い石造りの塔は、その周囲を覆う嵐のような風の壁に包まれて、まるで近づくことを拒絶しているかのようだ。風は一瞬たりとも止む気配を見せず、遠目から見ていても岩肌を削るほどの勢いで吹き続けている。
「……あれを抜けなきゃいけないのか」
思わずそう呟くと、隣でルーシェンが腕を組んだまま眉を顰めた。
「そうですね。少なくとも岩山は越えなければなりません。ただ、あの風の中に直接飛び込むのはさすがに無謀です」
「だよな。塔と岩山の間に降りられれば……」
目を細めて見れば、確かに岩山の内側と塔の外壁との間に、ある程度の広さがある。完全に風がないわけではないだろうが、あの嵐の中心部よりはましなはずだ。問題は、そこに辿り着けるかどうかだった。
俺はエリシアに視線を向けた。エリシアはしばらく何も言わず、岩山の稜線と風の流れを交互に見つめ続けた。その目は、純粋に状況を計算する色だけをたたえていた。
「……できます」
やがてエリシアはそう言って、ゆっくりと俺たちに向き直った。
「ただし、条件があります。風の向きは一定ではありません。ある程度の規則性はありますが、崩れる可能性もあります。もし飛行中に風の流れが変わって巻き込まれれば——」
「墜落、か」
「ええ。否定はできません」
エリシアは言葉を濁さなかった。その率直さが、却って信頼できた。
俺は小さく息を吐く。
ゲームならセーブしてやり直せる——そんな甘い考えは、もう浮かびもしない。ここまで来て、ここで退くという選択肢がもはや頭にない。俺の中で迷いよりも先に、覚悟が固まっていた。
「わかった。行こう」
俺はルーシェンに向き直り、
「すぐ風の魔法を使えるようにしておいてくれ」
「わかりました」
ルーシェンは短く頷きながら、しかし出発前にわずかに躊躇うような表情を見せた。何かを言いかけて、一度口を閉じる。そのわずかな間の後、彼は静かに口を開いた。
「榊さん。一つ聞いてもいいですか」
「何だ?」
「白銀界でしてくれたように——飛行機に闇の力を纏わせることは、できますか?」
その言葉で、俺はあの時のことを思い出した。地下配管で白銀界に飛ばされた時、俺はルーシェン自身とファルマに闇の力を纏わせた。あれが魔力による干渉を弾いていたし、衝撃を和らげてもいた。飛行機に対して同じことが……。
「試してみる」
組み立て式の飛行機に手を当て、意識を集中する。あの時のように剣に纏わせ、飛行機全体に這わせるイメージで。
じわりと広がる闇の色。機体の表面に薄い膜のような暗色が纏わりついていくのが見えた。
「結構力を使うが、できないことは無いな……」
祝骨との遭遇時の、みんなを大きく覆った時よりはマシだ。ただ、想定以上に消耗する。纏わせながら維持し続けるというのは、自分の体や剣に纏わせるよりもずっと難しい。これを飛行中ずっと続けるのは無理だと直感した。
「長くは持たない。でも万が一の時に使えれば、墜落してもダメージは最小限に抑えられるはずだ」
ルーシェンはその言葉の意味を一瞬で理解したらしく、表情を引き締めて頷いた。ファルマも静かに拳を握っていた。
俺は闇の力をすぐ展開できるよう意識の端で構えながら、飛行機に乗り込んだ。
2.塔への滑空
頂上からの滑空が始まった。
最初は順調だった。エリシアの読み通り、風の流れは一定のリズムを保っており、岩山に近づくにつれて気流の複雑さが増してはいたが、飛行機は安定した軌道を保ち続けた。遠くからぼんやりと見えていた最果ての塔が、徐々に、確実に大きくなってくる。
岩山の内側と塔との間の空き地——目算よりも広い。飛行機が降りるには十分なスペースがある。あそこに降りられれば、と俺が思い始めた矢先だった。
岩山の影から、それは現れた。
プテラノドンを数倍に拡大したような巨大な魔物だった。翼を広げただけでこちらの飛行機をゆうに凌ぐ大きさがあり、その両眼には明確な敵意が宿っている。岩山に張り付くようにして潜んでいたのか、こちらが接近するまで全く気づかなかった。
「っ——炎槍!」
ルーシェンが即座に反応した。炎槍の呪文を紡ぐ声は短く、鋭かった。放たれた赤い光の槍が魔物に向かって真っ直ぐ突き進む。
しかし魔物はそれを、わずかに胴を捻るだけで躱してしまった。翼を一度大きく羽ばたかせながら、大きな口を開けていく。口の奥に光が集まり始めるのが見えた。
まずい。
反射的に飛行機に意識を集中させ闇の力を纏わせた、その瞬間——。
ファルマの放った疾嘴群鳥が、魔物の片目に突き刺さった。
「ギギャッ!?」
細く鋭い鳥が、目に突き込んだ。鮮烈な衝撃に、魔物の首が大きく跳ね上がる。口から漏れかけたブレスが霧散した。
だが飛行機は既に回避軌道に入っており、翼が間に合わなかった。右の翼が、苦悶で身を捩る魔物の胴体に直撃する——かに見えた。
しかし闇の力を纏った翼が触れた瞬間、魔物の肉体は抵抗なく断ち割られた。抵抗がほとんどなかった。ただ翼が通過した後、魔物の胴体には深く黒ずんだ切断面が走っており、二つに分かれた巨体がゆっくりと落下していった。
窮地を抜けた。しかし代償があった。
急な回避と衝突の影響で、飛行機の高度が大きく落ちていた。前方には岩山の稜線が迫っている。このままではぶつかる!
「風よ!」
ルーシェンの声と同時に、機体の下から突き上げるような風圧を感じた。彼が咄嗟に飛行機の真下へ風の魔法を叩き込んだのだ。その一押しが飛行機をわずかに上へ持ち上げ、岩山の稜線をほんの数十センチ上で越えた。
そのまま塔を周回するように高度を下げ着地。
機体が空き地の地面を滑り、ゆっくりと停止した。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
息を整えながら飛行機から降りると、目の前に風に包まれた最果ての塔が聳えていた。こうして間近で見ると、石の表面に刻まれた無数の模様が見える。何かの文字のような、記号のような……だがその意味はわからない。
「入口はどこだ?」
「それらしきものは、ここからは見えませんね」
飛行機を片付けながら、入口を探して塔の外周を歩き始めた。しかしどれだけ見ても、扉らしきものが見当たらない。壁は均一に続き、ただ風が塔を取り巻いているだけだ。
「こっちにも何もないです」
「同じくです、榊さん」
ルーシェンとエリシアが首を振って戻ってきた頃、ファルマが低い声で呼んだ。
「……榊さん、これを」
彼女が立ち止まっていたのは、塔の外壁から少し離れた場所だった。草に半ば隠れるようにして、膝丈ほどの小さな石碑が立っている。表面には細かく、しかしはっきりと文字が刻まれていた。
俺たちは石碑の前に集まり、その文字を見た。
3.石碑
石碑に刻まれていたのは、こういう文章だった。
『光を嫌い、光を纏う者よ。根を断たれてなお実を結ぶ樹は何か。深淵に降り、天に戻らぬ水は何か。すべてを呑み、すべてを生む闇の根源は何か。問いに答えるな。ただ、与えよ』
四人でそれを黙読した後、エリシアが最初に口を開いた。
「……これは問いかけに見えますが、答えを言葉で返すことを求めていないように見えます」
「『答えるな、与えよ』ですね」
ルーシェンが腕を組んで目を細めた。
「与える、というのが鍵でしょうか。では何を?」
「三つの問いの答えに共通するものじゃないか?」
俺は頭を整理しながら言った。
「根を断たれてなお実を結ぶ樹——切り取られても育ち続けるということ?」
「枯れ木に実、と言いたいのかもしれません」
ファルマが静かな声で言った。
「でもそれより、根がなくても、という点が重要な気がします。根なし草という言葉がありますが、根がなくても存在するもの……」
「深淵に降りて天に戻らぬ水、ですか」
エリシアが顎に手を当てた。
「蒸発するなら天に戻ります。地下水になるなら地中に留まる。天に戻らないとするなら——地の底に消えていく?」
「地下に沈んで還らない。それって、消えていくということですよね」
ルーシェンが続けた。
「でも消えるものが何かを生むとしたら——」
「最後の一文だ」
俺はもう一度石碑を読んだ。
「すべてを呑み、すべてを生む闇の根源。これがこの問い全体の答えを指しているんじゃないか」
理屈というより、直感だった。
これは言葉で答えるものではない。
少しの間、沈黙が落ちた。
「……つまり、三つの問いはすべて同じものを指している?」
ファルマがゆっくりと言った。
「根なし草のように根拠なく在るもの、地に沈んで消えるもの、すべてを呑んで生むもの——」
エリシアが続きを引き取った。
「これだけ共通点を挙げておいて、最後に『闇の根源』と明言しています。答えは闇そのものということではないでしょうか」
「そして最初の一行」
ルーシェンが石碑の冒頭を指さした。
「『光を嫌い、光を纏う者よ』——これ、榊さんのことじゃないですか」
言われて、俺は苦笑した。光を嫌う闇の力を持ち、しかし光を纏う——闇の力を持ちながらも、人としての光も持つ……俺のことを指しているなら、この石碑はそもそも、闇の力を持つ人間に向けて書かれたことになる。
「つまり」
俺はまとめた。
「この石碑は闇の力を持つ者に向けた案内で、答えは闇そのもの。言葉で答えるのではなく——闇の力を直接与えろ、ということか」
「『ただ、与えよ』ですね」
ファルマが静かに頷いた。
俺は石碑に手を当てた。
意識を集中し、体の奥から闇の力をゆっくりと引き出す。答えを言葉にするのではなく、ただそれを石碑に注ぎ込む——。
闇の色が石碑全体に広がり、刻まれた文字の一つ一つが薄く輝いた。
次の瞬間、地の底から響くような低い音が空気を震わせた。
塔を取り巻く風の流れが——部分的に、ほんのわずかに、しかし確かに変わった。風が割れるように退いたその場所に、石造りの扉が姿を現した。
重厚な扉はゆっくりと内側へ開いていき、塔の内部へと続く暗い通路が口を開けた。
俺たちは顔を見合わせた。ルーシェンが小さく息を吐き、ファルマが静かに拳を握り直した。エリシアは塔の中を覗き込みながら、表情を引き締めていた。
俺は扉の前に立ち、内部の暗闇を見つめた。最果ての塔——ここに来た理由は一つだ。
「ルシエラ、やっとたどり着いたぞ」
ここまでの旅路を思い返しながら、俺は一歩、闇の中へ踏み出した。
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最果ての塔
バルフォア半島最南端の岬にそびえる孤高の塔。五大魔法使いの一人、ルシエラが住まうと伝えられている。
周囲は切り立った岩山に囲まれ、陸路での到達はほぼ不可能。塔そのものも常に嵐のごとき風に包まれ、侵入を拒む。
その姿は半島対岸からも望めるが、海には強大な魔物が棲み、航行は事実上不可能。
さらに半島一帯は砂漠化しており、近づこうとする者自体がほとんどいない。
見えているのに辿り着けない、まさに“最果て”の名にふさわしい塔である。




