幕間 王都の動き5
幕間 王都の動き5
「惨劇の幕」
1 地下墳墓の門
日が傾き、王都の石畳が橙色に染まり始めた頃、騎士のオリバーは異変に気づいた。
相方のマークとともに、地下墳墓の入口に立って二時間が経っていた。いつもと変わらない退屈な番だった。しかし——。
「マーク」
オリバーは低い声で言った。
「聞こえるか」
「何だ」
「下から音がする」
マークが耳を澄ませた。確かに聞こえた。石が擦れるような音が、地下の奥から響いていた。
「ネズミじゃないか」
「ネズミじゃない。もっと重い音だ」
音が大きくなった。
続いて呻き声が来た。人間の声ではなかった。しかし人間の形をした何かが出す声だった。
「まさか——ゾンビか」
オリバーが疑問を口にする。
「ありえない」
マークが首を振った。
「ここの遺体は全部アンデッド防止の処置がされているはずだ。土葬のものも、火葬のものも——」
音が激しくなった。
二人は顔を見合わせた。
オリバーが身を屈めて、鉄の扉の隙間から地下を覗き込んだ。
暗がりの中に、動くものがあった。そして光る無数の目。
一体ではなかった。十体、二十体——数えることすら追いつかない数の、腐敗した体が這い出てこようとしていた。
「閉めろ——!今すぐ——!」
二人が扉に体を叩きつけた。鉄の扉を閉め、閂をかけた。
次の瞬間、扉が内側から叩かれた。
一度。二度。三度——扉の表面が歪み始めた。金属が軋む音が響いた。
「マーク、行け!」
オリバーが叫んだ。両腕で扉を押さえながら、歯を食いしばった。
「緊急事態を知らせろ——!俺はここを抑える——!」
「オリバー——!」
「早く行け!」
マークが走り出した。
緊急の鐘を鳴らす施設へ、全力で走った。
背後で扉が壊れる音がした。
それからオリバーの声が——途中で潰れた。
2 街の地獄
鐘の音が王都に響いた。
市場にいた人々が顔を上げた。その音が緊急のそれだとわかった瞬間、人の流れが変わり始めた。
「何事だ」
「鐘が——あの音は——」
答えを出す前に、近くの路地から何かが現れた。
人の形をしていた。しかし皮膚が腐っていた。目に光がなかった。口が開いて、空気を吸い込むような呻き声を出した。
「ゾンビだ——!」
叫び声が上がった。
人の波が一度に動いた。互いにぶつかり合いながら、どちらに逃げればいいかもわからないまま走った。子供が転んだ。老人が押しのけられた。商品が床に散らばりる。
「ぎゃあ!」
「痛い!痛い!やめて!助けて!」
逃げる人々に踏み潰される人もいた。
空き家だと思っていた建物の扉が開いた。その中からもゾンビが出てきた。路地の奥から、また別の方向から、また別の場所から——王都のあちこちから同時に現れた。
巡回していた騎士たちが声を上げた。
「避難しろ——!大通りに向かえ——!」
剣を抜いてゾンビに斬りかかった。一体を倒した。しかし右から別の一体が来た。左からも来た。後ろからも来た。数が多すぎた。
叫びが上がった。別の場所でも、また別の場所でも。
それはすぐに、一つの音になった。
3 ローラとクルス
ローラは走っていた。
宿の給仕着のまま、石畳の上を必死に走っていた。鐘の音を聞いた瞬間に外に出たのが間違いだった。しかし宿の客たちを逃がすのを手伝っていたら、気づけば外にいた。
路地の角から影が来た。
ローラは体をひねった。間に合った——しかし足が石畳の段差に引っかかった。体が前に崩れた。
膝と手のひらが石畳に当たった。痛みが来た。立ち上がろうとしたが、ゾンビがすぐそこにいた。
「誰か——助けて——」
声が出た。しかし街は叫びで満ちていた。自分の声など届かなかった。
ゾンビが近づいた。
「うおおおおっ——」
大きな叫び声とともに、鉄の棒がゾンビの頭に叩きつけられた。ゾンビが吹き飛んだ。
ローラは顔を上げた。
恋人のクルスがいた。頭から少し血を流していた。鉄の棒を両手で持って、構えていた。商人見習いらしくない構えだったが、それが今は頼もしかった。
「クルス——」
「立てる?」
「う、うん」
クルスが手を差し伸べた。引き起こされた瞬間、ローラはクルスに飛びついた。
「とにかく逃げよう」
クルスがローラの手を引いた。
「大通りに向かえば騎士がいるはずだから」
走り出した。
ゾンビを見つけるたびに、路地に入って息を殺した。物陰に隠れて、ゾンビが別の方向に向かうのを待った。見つかった時はクルスが鉄の棒で立ち向かった。剣士でも何でもなかった。それでも振り続けた。転んでも立って、また振った。
「僕が護る」
クルスが叫んだ。ゾンビを殴りながら。息が上がっていた。頭の傷からの血が頬を伝っていた。
ローラはその姿を見た。
頼もしくて、怖くて、どうしようもなく愛しかった。
「もし生き残ったら」
クルスが走りながら言った。
「結婚しよう」
「する」
ローラは即答した。
「絶対する」
「じゃあ生き残らないといけないね」
大通りが見えてきた。戦いの音が聞こえた。しかし騎士の声も聞こえた。あそこまで行けば——。
近くの扉が開いた。
三体出てきた。
「クルス、どうする——」
返事がなかった。
ローラは手を引かれたと思った。違った。引っ張られ、放り投げられた。ゾンビの方に向かって。
思考が止まった。
体が地面に当たった。それからゾンビの手が来た。腐った息が顔にかかった。甘ったるい腐臭が喉に絡みついた。そして——歯が来た。
「クルス——!クルス——!助けて——!」
クルスに助けを求める。しかしクルスは動かなかった。
俯いたまま、立っていた。
「いやぁ!ぎゃぁ!」
ローラはゾンビに噛みつかれた。叫び声が出た。また噛まれた。別の場所を。
最後に見たのは、クルスの頭の上で揺れる、赤と紫の花だった。
4 母と娘
ミリアは娘の手を握ったまま走っていた。
買い物の帰りだった。鐘が鳴った時、周囲が一度に動いた。何が起きているかわからないまま、娘を引いて走り始めた。
「お母さん怖い」
エマが泣きそうな声で震えていた。
「大丈夫」
ミリアはエマの目を見ながら言った。
「エマ、大丈夫だから」
それはエマだけでなく、自分に言い聞かせていた。
「お父さんは」
エマの声は掠れていた。
「お父さんは騎士さんだから——すごく強いから——必ず守ってくれる」
それも自分に言い聞かせていた。
路地でゾンビと鉢合わせた。ミリアはエマを壁際に押し込んで、自分が前に出た。ゾンビがこちらに来た。別の路地に逃げ込んだ。角を曲がった瞬間にゾンビの手が来て、かろうじて躱した。エマが悲鳴を上げかけた。ミリアがエマの口を素早く塞いだ。
「声を出したらダメ」
エマが頷いた。泣いていたが、頷いた。
壁の陰に隠れてゾンビが過ぎるのを待った。別のゾンビが来た。別の方向に逃げた。
何度繰り返したかわからなかった。膝が震えていた。息が上がっていた。エマの手が汗ばんでいた。
家が見えた。
「あそこまで——」
走った。扉を開けた。中に入った。鍵をかけた。
外から声が聞こえた。叫び声と、ゾンビの呻き声が混じっていた。
ミリアは息を整えた。夫が言っていた。何かあった時のために地下室に入れと。鍵は棚の裏にある。地下室は頑丈だと。
「エマ、地下に行くよ」
「うん」
エマが言った。目が赤かったが、しっかりしていた。
地下室の扉を開けた。中に入った。扉を閉めた。
光源虫を召喚した。小さな光が広がった。
ほっとした。その温かい光が、外の地獄と切り離された安全な場所を作っていた。
その瞬間、腹部に冷たいものが当たった。
ミリアは最初、何かにぶつかったと思った。しかし感触が違った。刺さる感触だった。貫く感触だった。
体の力が一度に抜けた。
膝をついた。手でお腹を押さえた。手が温かくなった。
振り返った。
エマがいた。
小さな手にナイフを持っていた。
「エマ——どう、して——」
言葉が出なかった。
エマは何も答えなかった。口元が笑っていた。
それは、エマのものではなかった。
ナイフが上がった。
「エ……マ……」
ミリアの目は最後に、エマの頭の上で揺れる赤い花が見えた。
5 防衛線の決壊
第二騎士団は立て直していた。
最初の混乱を乗り越えて、ゾンビの来る方向を読み、防衛線を構築した。騎士たちの怒号が飛び交い、剣が振られ、魔法が飛び、ゾンビが倒れ続けた。
「左から四体——」
「抑えろ、退かすな——」
「医療班は後方へ——」
一進一退だった。しかし線は保っていた。
騎士ザイルは隣のリックを見た。
「リック、大丈夫か」
「問題ない」
リックが言った。しかしその声から感情が全く感じられなかった。
エドワードに言われた言葉が頭に浮かんだ。騎士の中に仕掛けが施された者がいる。その者の名前が読み上げられた時、リックの名があった。
半信半疑だった。リックとは長い付き合いだった。
しかし今——。
リックが剣を持ち直した。その動作が、前を向いていなかった。
剣が横に振られた。仲間の騎士の方に向けて。
「リック——!」
ザイルが咄嗟に自分の剣を出し、リックの剣を弾いた。金属の音が響いた。
「リック、何をして——」
「クケケケ……ケヒャァ……!」
リックが奇声を上げた。目が焦点を失っていた。剣を上げて、また振った。
「悪魔に操られている——副団長が言っていた——」
ザイルが叫んだ。
「リックを傷つけるな、しかし抑えろ——」
別の騎士が加わった。リックを挟んで押さえようとした。しかしリックの動きが止まらなかった。狂気に彩られた顔で、剣を振り続けた。
三人が抜けた。
防衛線の一角が薄くなった。ゾンビが押し込んできた。
「押されるな——」
しかし三人分の穴は埋められなかった。
防衛線が崩れた。
6 天使の降臨
鐘の音を聞いた瞬間、ギディウスは立ち上がっていた。
神殿の分所から飛び出た。後ろからランエルと部下の聖騎士たちが続いた。
大通りに出た瞬間、状況が見えた。
人々が逃げていた。ゾンビが追っていた。騎士が戦っていたが、数が圧倒的に足りなかった。
「行くぞ」
ギディウスが言った。
聖騎士たちが展開した。神聖魔法の光が走った。ゾンビが一体倒れ、また一体倒れた。人々が気づいた。
「聖騎士様が——」
「助かった——」
歓声が上がった。しかし二十人の聖騎士では、大通りを全てカバーできなかった。別の場所でゾンビが人を追っていた。届かない場所があった。
「くっ、数が足りない——」
ギディウスが言った。
その時、天から光が差した。
一条ではなかった。何十もの光の柱が、王都の上空から降りてきた。
翼が四枚ある存在が、光の中から現れた。白い衣をまとい、武器を手にしていた。中級天使だった。
「光と秩序の神の御名のもとに」
声が降ってきた。
「人々よ、恐れるな」
天使たちが地に降りた。ゾンビに向かって動いた。その動きの速さは、聖騎士を上回っていた。
人々の中から、声が上がった。
祈りの声だった。涙を流している者もいた。膝をついている者もいた。
「神が助けてくださった——」
「ありがとうございます——」
ギディウスは天使たちを見ながら、戦いを続けた。しかしその頭に、一つの疑問があった。なぜここに天使が来るのか。自分たちへの神の指示には、天使の降臨は含まれていなかった。
「これが神の威光だ!」
ランエルが戦いながら叫ぶ。その目に、盲信があった。
「神は我々のために天使を送ってくださった!光の秩序神を信じれば救われる!」
「……」
ギディウスは答えなかった。戦いながら、考えていた。
7 上級天使の決断
セレナはそれを遠くから見ていた。
中級天使たちが降りてくるのを見た。自分が知らない指示で動いている存在たちが、自分の知らない理由でここにいた。
胸の中に、何かが広がった。
置いていかれた、という感覚だった。それを何と呼ぶのかを、セレナは持っていなかった。しかしそれは確かにあった。
しかし今は——今は考える時ではなかった。
人が死んでいた。ゾンビが街を歩いていた。それに立ち向かわなければならなかった。
セレナは聖騎士と天使たちの元に走った。
ランエルが気づいた。剣を構えながら声をかけた。
「そこの者、何者か——」
「上級天使のセレナです」
セレナがランエルに告げる。
「私が戦うためには、人による承認が必要です。あなたが——」
ランエルは一瞬止まった。その目に、驚きと、しかし揺るがない信仰の色があった。膝をついた。
「承認いたします」
ランエルが言った。
「どうか、人々をお救いください」
セレナは目を閉じた。
封印が解けた。
体の内側から、光が広がった。
翼が開いた。六枚の翼が。白銀の鎧が現れた。槍が手に宿った。盾が腕に生まれた。
ランエルが息を呑んだ。戦いの中で顔を上げた騎士たちが、動きを止めた。人々が見上げた。
「神々しい——」
「あれは上級天使様——」
セレナは中級天使たちの中に行った。
「これは神の命で来たのか」
セレナが問うた。
「はい、セレナ様」
中級天使の一体が答えた。
「神の命で参りました。セレナ様の指示に従うよう言われています」
また自分が知らない命令が下されていた。
その事実を、セレナは胸の中に置いた。今ではない。今は戦う時だ。
「秩序の神の名のもとに」
セレナは槍を天に掲げた。
「行くぞ」
翼が広がった。
人々の中から、祈りの声が上がった。涙と一緒に。膝をついて、手を組んで。
セレナはその声を受けながら、飛んだ。ゾンビに向かって。
胸の中にある、名前のつかない何かを抱えたまま。




