幕間 王都の動き3
幕間 王都の動き3
1 飛竜の上の兄弟
雲が近かった。
飛竜の背から見下ろすと、王国の大地が遠く広がっていた。街道が細い線になり、森が緑の塊になっていた。周囲には十騎の飛竜部隊が護衛として隊形を組んでいた。その全体が、緩やかな気流に乗りながら王都を目指していた。
マルクは前を見ていた。その顔に、帰郷の安堵はなかった。
「悪魔が暗躍しているとすれば、王都は今、相当まずい状態にある」
隣でクレイドが欠伸を噛み殺した。
「まあ……なんとかなるんじゃないか」
クレイドは気楽な声で言った。
「兄上たちがいるんだし」
「"なんとかなる"で済む話じゃない」
マルクは目を前に向けたまま言った。
「本来なら馬車でゆっくり帰る予定だったんだけどなぁ」
クレイドが伸びをしながら言った。
「急かしたのはマルク兄貴だろ」
「一昨日受け取った伝達鷹の内容を見ればわかる」
マルクの声には僅かな焦燥があった。
「近いうちに何かが起きる。それだけは間違いない」
「でもさ」
クレイドがぽつりと言った。
「“起きる前に動いてる奴”がいるってことだろ?」
「それに仮に起きたとして」
クレイドが少し考えるように言った。
「俺たちが帰ったところで何ができる? 俺は特に何もできないんだが」
「リチャード兄上とロベール兄上と連携できる」
マルクは即答する。
「二人だけでは動けないことも、人数が増えれば変わる。そして宰相とも意見を合わせなければならない。今は情報が分散しすぎている」
クレイドはそれを聞いて、少し黙った。
「まあ——兄貴が言うなら、そうなんだろうなぁ」
クレイドは言った。その声が、さっきより少し柔らかかった。
「兄貴は考えすぎるところがあるから、あまり一人で抱え込まないでくれよ」
マルクは前を向いたまま、少しだけ表情が動いた。
「……王都が見えてきた」
クレイドが前方を見た。城壁の輪郭が、地平線の上に現れ始めていた。
「変わってないな〜」
クレイドが言った。
「久しぶりに見ても、やっぱり王都だ」
マルクは王都を見た。
変わっていなかった。石造りの城壁も、その内側に重なる建物の群れも、記憶の通りだった。
しかしどこかに、影があった。
形があるわけではなかった。見えるわけでもなかった。それでも、マルクには王都の全体に何かが覆いかぶさっているように見えた。
2 出迎えと馬車
広場に飛竜が降りた。
馬に乗った騎士たちが待っていた。第一騎士団の近衛数名と、第二騎士団の副団長エドワードを含む二十名ほどだった。馬車が横に用意されていた。
飛竜から降りると、エドワードが馬から降りて礼をした。
「マルク王子、クレイド王子。ご無事の帰還、何よりです」
「エドワード副団長、久しぶりだ」
「久しぶり〜」
マルクはエドワードの元に歩み寄った。クレイドは後ろで手を軽く挙げている。
「早速だが——最近の状況を聞かせてもらいたい」
「馬車に乗りながらお話しします」
馬車に乗り込んだ。周囲を騎士たちが囲んで動き始めた。
エドワードが馬で馬車に寄り、できる限り声を小さくして話した。
「地下水路で変事がありました。悪魔と思われる何者かが仕掛けた罠と大量の水による攻撃が——」
「地下水路まで」
マルクが眉を寄せた。
「それだけではありません」
エドワードは続けた。
「人の頭に、人を裏切らせる仕掛けがある可能性があります。断定はできませんが——実際にそれによると思われる事案がありました。子供が突然、親しい人物を襲おうとした件があります」
「子供が……マジか」
クレイドの声から気楽さが消えた。
「仕掛けは通常見えないし感じられません。だから見分けることができる協力者に頼んで、騎士団の配置を組み直しているところです。王城に働く者についても宰相が手を打っています」
マルクは馬車の壁に手を当てたまま、考え込んでいた。
「王城の中にまでか……」
「事態は深刻です」
マルクが呟き、エドワードが頷く。
「はぁ……思った以上に大変なことになってるなぁ……」
クレイドが窓の外を見た。いつもと変わらない街の景色が続いていた。しかしその景色の見え方が、さっきと少し違っていた。
3 宰相の部屋
王城に着き、王族の談話室で王への挨拶を終えた。王族全員が同席していた。
「もう少し話を聞かせてくれてもいいのじゃないのか?」
王が2人を引き留めようとするが、
「まあまあ、俺が色々話すからさ。聞いてよ父さん、帝国って夜になる前にさぁ……」
「リチャード兄さん、ロベール兄さん」
「ああ」
「わかってる」
クレイドを王の相手に残した。クレイドが土産話を始めるのを横目に、マルクはリチャードとロベールと宰相の部屋に向かった。
宰相は疲れていた。しかしその目の鋭さは変わっていなかった。
「帰ってこられましたか」
宰相はマルクを見て、少し目を細めた。
「顔つきが精悍になりましたな」
「挨拶は後で」
マルクが言った。
「状況を聞かせてください」
「ふむ……では……」
宰相は説明した。
王城に働く人員を少しずつ配置換えし、仕掛けられていない者の密度を高めていること。騎士団についても同様に対処していること。各神殿に秘密裏に、大きな混乱が起きた時の対応を要請していること。
「まだできることがあります」
マルクが少し考えてから言った。
「混乱が起きることはもう避けられないと思っています。その時のために、物資の備蓄を増やすべきです。食料、薬、搬送の手段——今のうちに手を打っておかなければ」
「それに一箇所に集めるのではなく、区画ごとに分散備蓄をするべきです
す」
「また、流言を放置すれば、混乱は拡大します。公式に情報を出すべきです」
「水の不安が広がっていると聞きました。井戸ごとに管理責任者を置き、封鎖基準を設けるべきです」
宰相が少し目を細めた。その目に、評価の色があった。
「頭が柔らかくなりましたな」
マルクを見る目は祖父から孫に向けるような暖かさがあった。
「帝国での経験は良いものであったようですな」
「必要なことだと判断しました」
マルクは表情を崩さず続けた。
「情報の統制は表向きだけでなく私と、ロベール王子の暗部を上手く使えば噂の流布という形でも可能でしょう」
「ああ、早急に手配しよう」
宰相がロベールをチラリと見ると、ロベールは頷く。
「ただ、井戸の管理はともかく、大規模な備蓄となると——」
「王の認可が要りますが……」
宰相が疲れを感じさせる声で言った。少し息を吐いた。
「少しずつはやってはおります。目立たない形で。しかし王が乗り気ではありませんから認可がおりません」
「私が話してくる」
話を聞いていたリチャードが立ち上がった。
4 王と王妃
執務室ではクレイドが王に土産話をしていた。
「父上、いえ王よ、話があります」
リチャードが物資の備蓄について話し始めた。王は書類に目を落としながら聞いていた。
「費用もかかる。今のところそこまでの必要は——」
「必要があってからでは遅いのです」
リチャードが言った。
「まあ、そう急くな」
王は穏やかに言った。
「過去に大規模備蓄が無駄になった事例があってな……」
「今の物資でも十分やっていける。何かあればその都度対処すれば——」
「何かが起きてからでは間に合わない状況もあります」
マルクが続けた。
「帝国での見聞では、備蓄の不足が騒乱の規模を大きくした事例が——」
「マルクの言うことはわかる」
王はマルクを真っ直ぐに見て言った。
「しかしお前たちはまだ若い。物事はそう悪い方向にばかり転ぶわけでは——」
「失礼します」
扉が開いた。
エリーザ王妃が入ってきた。
王が目を丸くした。王妃が執務室に来ることは、珍しいことだった。
「エリーザ、どうした」
王妃はリチャードを見た。マルクを見た。クレイドを見た。それから王を見た。
「少しよろしいですか」
王妃は静かに言った。その声は柔らかかった。しかし不退転の意思があった。
王妃はリチャードに向いた。
「あなたはもう三十を過ぎています」
「次代の王として執務を行っていかなければならない。それはあなた自身も、周囲も理解している」
「母上——」
「リチャードに経験を積ませることが、この国の未来のためになります」王妃は王に向いた。
「息子を信じてください。あなたが経験を積んだように、息子たちにも必要なことがあるはずです」
王は黙っていた。
長い沈黙があった。
「……わかった」
王はゆっくり言った。
「リチャード、宰相やマルクと相談しながらやりたいことをやってみろ」
リチャードが頭を下げた。マルクも続いた。クレイドがほっとした顔をした。
四人が出ていった後、執務室には王と王妃だけが残った。
王は椅子に深く腰を下ろした。力が抜けたような顔だった。
「過保護になっていたな、余は」
ボソリと王がつぶやく。
王妃は内心で思った。ことなかれ主義で息子たちの言うことを聞かないからでしょう、と。
「子供は成長するものです」
王妃の声は内心をおくびにも出さず穏やかだった。
「国を治めるのであれば、失敗も含めた様々な経験が必要です」
「そうだな」
王妃は微笑んだ。その目の奥に、先日からある決意がまだ静かに灯っていた。
5 天使の孤立
セレナは遠くから、それを見ていた。
白銀の鎧が列を作り、王都の南側に向かって歩いていた。普段の巡回とは違った。体の動きに、緊張が混じっていた。目的を持って動いている動き方だった。
セレナは距離を保ちながら、後をついた。
聖騎士たちは王都の南側にある小さな建物に入っていった。光と秩序の神の分所だった。大きな神殿ではなく、教会と呼ぶ方が近い規模の建物だった。その扉が閉まった。
セレナは建物の前で立ち止まった。
自分は呼ばれていない。——なぜだ。
それは明らかだった。神から自分への指示はなかった。しかし聖騎士たちは明確な目的を持って動いていた。神の指示でなければ、聖十騎士がここまで動くわけがない。
つまり神は自分に知らせずに、聖騎士たちを動かしていた。
セレナはその建物を見た。
何百年もの間、自分は神のために動いてきた。疑いを持ったことはなかった。いや——疑いを持つという発想が、そもそもなかった。
しかし今、自分の知らないところで何かが進んでいた。
それが何かを、セレナには名付けられなかった。
ただ——建物の前に立って、その閉じた扉を見ている間、胸の中に小さな何かがあった。
それは先日から感じていたものと、同じものだった。
セレナは踵を返した。フードを被り直して、南側の通りを歩き始めた。
その足取りは、いつも通り静かだった。しかしその足が、どこへ向かうかを、セレナ自身はまだ決めていなかった。




