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父さん、これ知ってるぞ。

 『……だから御成敗式目が制定された理由ってさ』

 スマホのスピーカーから美咲ちゃんの真面目な声が響く。

 俺は天井を見つめたまま必死に声を絞り出した。


「あ、ああ……武士の道理を明文化するためだったよな」

『そうそう!それでね……』


 会話自体は至極真っ当なテスト勉強の相談だ。

 しかし現実の俺は義理の姉に馬乗りになられワイシャツのボタンを外されている。


 結愛の冷たい指先が俺の胸板をゆっくりとなぞっていた。

 心臓の音がうるさい。

 バレてはいけないという極限の緊張感が俺の全身から冷や汗を吹き出させていた。


「……っ」

 結愛の指がさらに下へと滑り俺の腹筋のあたりをそっと撫でる。

 彼女は声を出せない俺の焦る顔を特等席で見下ろしサディスティックな笑みを深めていた。


 完全に俺をオモチャにして楽しんでいる。


 『……湊くん?本当に大丈夫?なんか息が変だよ?』

 美咲ちゃんが再び不審がり始めた。


「だ、大丈夫!ちょっと腹筋しながら電話してるから……!」

 我ながら意味不明な言い訳だ。

 しかしこの状況を誤魔化すにはそれくらいしか思いつかなかった。


『ええっ?テスト勉強中に筋トレ?湊くんストイックだねぇ』

 美咲ちゃんは純真無垢に信じてくれたらしい。


 ホッとしたのも束の間。

 結愛が俺の脇腹の特にくすぐったい部分をピンポイントでツッと指先で突いた。

「……ひゃっ、あっ」

 俺の口から情けない変な声が漏れた。

 声帯が完全に裏返ったような我慢の限界を超えた吐息だ。


 スマホの向こうで美咲ちゃんの言葉がピタリと止まった。

『……え?』

 静寂。

 そして明らかな動揺を含んだ声が聞こえてきた。


『ちょっと待っ……今、隣に誰か……』


 ピッ。


 無慈悲な電子音が鳴り響き通話が強制的に終了した。

 結愛が迷いなく通話終了ボタンを押したのだ。

 画面が暗転し部屋は再び静寂に包まれた。


 俺は絶望のあまり魂が抜けかけた。

 終わった。

 美咲ちゃんに絶対に変な誤解をされた。


「あははっ!なに今の声!」

 俺の腹の上で結愛が声を殺してケラケラと笑い始めた。

 彼女は腹を抱えるようにして俺の絶望した顔を見て心底楽しそうに笑っている。


「『ひゃっ』だって!湊くん女の子みたいだったよ!」

「お、お前なぁ……!美咲ちゃんに変な誤解されたらどうすんだよ!」

「いいじゃん別に。腹筋してたんでしょ?」


 彼女は悪びれる様子もなく俺の胸に両手をついて再び顔を近づけてきた。

 笑い声がおさまり彼女の瞳に再び妖しい光が宿る。

「さて。楽しい電話も終わったことだし」

 結愛の顔が俺の鼻先数センチのところまで迫る。

「尋問の続き、しよっか。……これ、誰の匂い〜?」


 結愛の冷たくて甘い声が鼓膜を震わせる。

 俺の胸ぐらを掴む細い手には一切の容赦がない。

 完全に逃げ場を失った俺は覚悟を決めるしかなかった。


「……わかった。言う、言うからちょっと離れ……」

 俺が雪乃宮さんの名前を口にしようとしたその瞬間だった。


 ドスッ、ドスッ、ドスッ。


 廊下からやけに重い足音が近づいてくるのが聞こえた。

 まるで熊が家の中を徘徊しているかのような無遠慮な足音だ。

 俺と結愛はピタリと動きを止めた。


「……湊、夜だし静かにしなさ」

 ガチャリとノブが回り部屋のドアが無惨にも開け放たれた。

 そこに立っていたのは仕事から帰ってきたばかりでまだネクタイを締めたままの父さんだった。


 父さんの言葉は途中で不自然に途切れた。

 無理もない。

 目の前にはベッドに押し倒されワイシャツのボタンを外された息子。


 そしてその上に馬乗りになっている義理の娘。

 誰がどう見ても完全にアウトな光景だ。


 終わった。


 俺の脳内で盛大な絶望の鐘が鳴り響いた。

 義理とはいえ姉弟の道外れた行為を目撃されてしまったのだ。

 勘当されるか、最悪の場合は家庭崩壊だ。

 俺は血の気が引くのを感じながら父さんの怒号を待った。


 しかし。

 父さんの顔に浮かんでいたのは怒りでも軽蔑でもなかった。

 彼は数秒間俺たちをまじまじと見つめた後、なぜかニヤリと口角を上げたのだ。


「……ほう」


 父さんは腕を組み深く頷いた。


「お父さん知ってるぞこれ。若者の間で流行ってるラノベ的な展開?だろ?」

「……は?」

 俺の口から間抜けな声が漏れた。

 ラノベ的な展開?

 何を言っているんだこの大人は。


「義理の姉弟が一つ屋根の下で一つ星の夜に……なるほどな。青春とはかくも甘酸っぱくそしてスリリングなものか」


 父さんは一人で勝手に納得しウンウンと頷いている。

 結愛でさえ予想外の反応に完全に固まっていた。


「ほれ、父さんのことは気にせず続けなさい」

 そう言うと父さんはどこからともなく取り出した缶ビールを片手に持った。


 プシュッ!


 部屋の中に炭酸の弾ける軽快な音が響き渡る。

「いやなんでビール持ってんだよ!しかも開けんな!特等席で観戦する気か!?」


「ほら、湊く〜ん?お義父さんもこう言ってることだし」

 俺はベッドの上から必死にツッコミを入れた。

 この親父は完全に状況をエンタメとして消費しようとしている。

 狂っている。

 我が家にはまともな大人はいないのか。


 「あなた?子供たちの部屋の前で何を……」

 廊下の奥からもう一つの足音が近づいてきた。

 とてもおしとやかで静かな足音。

 義母さんだ。


「おぉ母さん!今ここで若者たちの素晴らしい青春ドラマが……」

 父さんが上機嫌で振り返った瞬間だった。

 義母さんの視線がビールを持つ父さんを通り越しベッドの上の俺たちを捉えた。


 そして再び父さんへと視線を戻す。

 その流れるような視線移動には一切の感情がこもっていなかった。

「……あら」

 義母さんは短く呟いた。

 次の瞬間。

 彼女の白くて細い手が父さんのワイシャツの襟首をガシッと掴んだ。


「へ?」

「あなた。子供たちの邪魔をしてはいけませんよ。さあ、下に行きましょうね」


 言葉とは裏腹にその手には中華鍋を振るうことで鍛え上げられた圧倒的な武人の膂力が込められていた。

「ちょ、ちょっと待て母さん!首が!首が締まる!」

 ズリズリズリッ。

 父さんは抵抗する間もなく廊下を引きずられていく。

「助けてくれ!まだ死にたくない!」

 父さんが俺たちに向かって悲痛な叫びを上げる。

「俺の青春ドラマが!」

 だが義母さんの足は全く止まらない。

 まるで羽虫でも運ぶかのように軽々と大の大人を引きずっていく。

 その光景はシュールを通り越して純粋な恐怖だった。


 ドアの前に差し掛かった時、義母さんがふと立ち止まりこちらを振り返った。

 その顔にはとても清楚でおしとやかな笑みが浮かんでいた。

 しかしその瞳の奥には絶対に逆らってはいけない凄まじい威圧感が渦巻いている。


「結愛、そして湊くん」

 義母さんの鈴を転がすような声が部屋に響いた。

 ゴクリと俺は生唾を飲み込む。

 結愛も俺の上でビクッと肩を震わせた。


 「ほどほどに、ね?」

 ニッコリ。

 その笑顔の破壊力は凄まじかった。

「「はいっ!!」」

 俺と結愛は綺麗にハモって返事をした。

 義母さんは満足そうに頷くとそのまま父さんを引きずってドアをパタンと閉めた。


「……助け……て……」

 廊下の奥へ遠ざかっていく父さんの断末魔がこの家のカースト制度を如実に物語っていた。

 部屋の中には再び静寂が訪れた。

 しかしさっきまでのスリリングな空気は完全に消え去っていた。

 俺の上に乗ったままの結愛は顔を真っ赤にしてうつむいている。

「……ねえ、湊くん」

「……はい」

「これ、どういう状況?」

「俺が聞きたいよ」

 義母さんの『ほどほどに』という言葉が呪いのように頭の中でリフレインしている。


 俺たちの尋問タイムは親たちの圧倒的なキャラクター性の前に完全に有耶無耶にされることとなった。

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