暗闇のナビゲーション
教室に戻った俺たちはさらに一時間ほど勉強を続けた。
雪乃宮さんの指導は的確で俺のノートは要点で真っ黒になっていた。
「よし。今日はここまでにしましょう」
彼女が教科書を閉じた時には窓の外は完全に夜の闇に包まれていた。
帰り支度を済ませて廊下に出る。
そこは文字通りの漆黒だった。
「うわ。完全に電気落ちてるな」
最終下校時刻間際のため、巡回の先生も電気を消してしまったのだろう。
俺はポケットからスマホを取り出しライトを点灯させた。
白い光が真っ暗な廊下を丸く切り取る。
「足元気をつけてな。俺が前を歩くから」
俺が先導して階段を下り始める。
ぺた、ぺた。
二人の足音だけが響く。
ドン。
「うおっ」
背中越しに柔らかな感触があった。
雪乃宮さんが俺の背中にぶつかったのだ。
「ご、ごめんなさい。足元が見えなくて」
「大丈夫か?もう少しゆっくり歩こうか」
そう言って歩き出すがまたすぐにトスッと肩が触れ合う。
暗闇のせいだけではない。
彼女は明らかに俺の光の範囲から出ないように無意識に距離を詰めているのだ。
普段は絶対に触れることのない『氷の女王』の体温とほのかに香るシャンプーの匂い。
それが何度もぶつかるたびに暗闇の中で妙に意識させられた。
なんとか下駄箱まで辿り着き外の空気を吸ってホッとする。
校門を出ると街灯の光が世界を取り戻してくれた。
「ありがとう湊くん。助かったわ」
雪乃宮さんはいつもの涼しい顔に戻ってそう言った。
暗闇での密着などまるでなかったかのような平然とした態度だ。
「俺、今日自転車なんだ。バス停まで送るよ」
俺は駐輪場から自転車を引っ張り出した。
彼女の乗るバスの停留所は学校から少し歩いた大通りにある。
「いいの?方向違うんじゃない?」
「夜道は危ないだろ。それに今日は国語を教えてもらった恩もあるし」
俺が自転車を押しながら歩き出すと彼女も隣に並んだ。
夏の夜の生ぬるい風が彼女の黒髪を揺らす。
「……そう。それじゃあお言葉に甘えるわ」
バス停までの短い道のり。
俺たちは特に会話を交わすわけでもなくただ静かに並んで歩いた。
テスト前の焦燥感も暗闇の緊張感も今はなく不思議と心地よい時間が流れていた。
やがて到着したバスに乗り込む彼女を見送る。
「また明日ね。復習ちゃんとしておくのよ」
「わかってるって。気をつけて帰れよ」
小さく手を振る彼女を見届けてから俺は自転車に跨りペダルを漕ぎ出した。
「ただいま」
家に到着しそっと玄関のドアを開ける。
リビングからはテレビの音が微かに聞こえていた。
映画を見に行った時の恐怖が蘇る。
今日も遅くなってしまった。
恐る恐るリビングのドアを開けるとソファには結愛が座っていた。
「おかえり湊くん」
彼女は振り返りふわりと笑った。
昨日のような冷たい圧はない。
俺は少しホッとして正直に告げた。
「友達と勉強してた。遅くなってごめん」
嘘ではない。
雪乃宮さんの名前を出さないのは余計な詮索を避けるための方便だ。
結愛は立ち上がると俺の顔を見て優しく微笑んだ。
「ううん、大丈夫。お疲れ様」
その声には棘も裏もなく純粋な労いの響きがあった。
「ご飯、温め直そうか?それとも先にお風呂にする?」
「あ……じゃあ、先にご飯お願いしていいか」
「うん!わかった」
キッチンへ向かう結愛の後ろ姿を見つめる。
魔王モードの結愛もいればこんな風に家庭的で優しい姉の結愛もいる。
どちらが本当の彼女なのか。
あるいはどちらも本当なのかもしれない。
俺はカバンを床に置きテスト勉強で疲れた体を大きく伸ばした。
平穏な一日の終わりに感謝しながら。




