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暗闇の密着

 みっちりとしごかれた国語の特訓。

 気がつけば、窓の外はすっかり茜色から濃い藍色へと変わっていた。

 「……ふぅ、とりあえずここまでにして、少し休憩にしましょうか」

 雪乃宮さんがシャーペンを置き、小さく息を吐いた。


 俺も背伸びをして、凝り固まった肩をほぐす。

 頭の中は対比構造やら接続詞やらでパンパンだ。

 でも、確かに前より文章のロジックが読めるようになっている気がする。


 俺はポケットからスマホを取り出した。

 画面をつけると、いくつか通知が溜まっている。

 結愛からの「いつ帰るの?」という圧を感じるメッセージや、灰からの謎のスタンプなどだ。


 それらをぼんやりと確認していると、雪乃宮さんがスッと席を立った。

 「私、下駄箱の近くにある自販機まで飲み物を買ってくるわ」

 彼女は財布だけを手に持ち、教室のドアへと向かう。


 「あ、俺もついて行くよ」

 俺はスマホをポケットに突っ込み、慌てて席を立った。

 すると、雪乃宮さんはピタリと足を止め、振り返った。

 その瞳は、なぜか少しだけ冷ややかだった。

 「別にスマホとにらめっこしててもいいのよ?」

 トゲのある言い方だ。

 もしかして、俺がスマホを見ていたのが気に障ったのだろうか。


 真面目な彼女からすれば、せっかく教え甲斐のある生徒だと思ったのに、休憩に入った途端にスマホばかり見ているのが面白くなかったのかもしれない。

 だが、俺がついて行こうとした理由は別にある。

 「いや、もう暗いし廊下は不気味だろ?」

 学校の怪談を信じているわけではない。

 だが夜の校舎というのは独特の静けさと影があって、なんとなく不気味なのだ。

 いくら気丈で完璧な雪乃宮さんでも、薄暗い廊下や階段を女の子一人で歩かせるのは、なんとなく気が引けた。

 「……っ」

 雪乃宮さんの表情がわずかに揺らいだ。

 いつもは涼しげで隙のない彼女の頬にふわりと朱色が差す。

 冷たかった目が泳ぎ、彼女はそっと視線を床へと逸らした。

 「……そう。それなら……」

 彼女は小さく咳払いをしてポツリと呟く。

 「ついてきても、いいわよ」

 渋々といった口調だった。

 だがその声は先ほどよりもずっと柔らかく、どこかホッとしたような響きが混じっていた。

 俺たちは二人並んで誰もいない静かな廊下へと足を踏み出した。

 窓から差し込む青白い月明かりが、俺たちの影を長く床に落としている。


 静まり返った夜の校舎。

 等間隔に設置された非常灯の緑色の光だけが長く伸びる廊下をぼんやりと照らしている。

 パタ、パタ。

 俺たちの足音だけが不気味なほどよく響いていた。

 ふと気がつくと俺の少し斜め後ろを歩く雪乃宮さんが妙にくっついてきている。


 普段なら絶対に一定のパーソナルスペースを崩さない彼女だ。

 それが今は俺の腕に彼女の制服の袖がこすれるかこすれないかのギリギリの距離を保っている。

 (……もしかして、暗いところ怖いのか?)

 完璧超人の彼女が見せた意外な弱点。

 俺の胸にほんの少しの優越感と抗いがたい出来心が芽生えた。

 驚かしたらどんな反応をするんだろう。

 俺は歩みをピタリと止め振り返りざまに息を吸い込んだ。

 「……わっ!」


 ビクゥッ!!

 雪乃宮さんの華奢な体がものすごい勢いで縦に揺れた。

 バネでも仕込んであるのかと思うほどの見事な反応だ。

 彼女は一歩後ずさり肩で息をしながら数秒間硬直した。

 「あ、いや、ごめ——」

 俺が言いかけるよりも早く彼女がゆっくりと顔を上げた。


 非常灯の薄暗い光に照らされたその瞳は絶対零度の怒りを孕んでいた。

 ギロッと射殺すような視線が俺を貫く。

 「……ちょっと?」

 地を這うようなドスの効いた声だった。

 普段の凛とした声からは想像もつかない本気の圧がそこにはあった。

 気温が急激に下がったような錯覚に陥る。

 「ご、ごめんなさい」

 俺は背筋をピンと伸ばし秒で謝罪した。


 好奇心は猫を殺すというが今の俺は完全に地雷を踏み抜いた愚かな猫だ。

 雪乃宮さんは冷たい目で俺を睨みつけたままふいっとそっぽを向いた。

 「……次やったら現代文の補習、朝までコースにするから……」

 「はい!二度としません!」

 俺は深々と頭を下げた。

 暗い廊下が怖いどころの騒ぎではない。

 怒った雪乃宮さんの方が学校の怪談なんかより何百倍も恐ろしかった。

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