作者の気持ちという名の迷宮
案内されたのは雪乃宮さんのクラスだった。
放課後の教室にはもう誰も残っていない。
主のいない机が整然と並んでいる。
開け放たれた窓からは初夏の生ぬるい風が入り込んでいた。
俺は窓際にある雪乃宮さんの席の前の椅子を反転させて座った。
ふと窓の外を見下ろす。
いつもなら野球部やサッカー部の活気ある声が響いているはずの校庭だ。
しかし今日は誰もいない。
綺麗にならされた土のグラウンドが夕日を照り返しているだけだった。テスト週間特有の静寂が学校全体を包み込んでいる。
「本当に誰もいないな」
「みんな自分の戦場で必死なのよ。私たちも始めましょう」
雪乃宮さんは鞄から教科書とノートを取り出した。
俺も慌てて自分の鞄を漁る。
「最初はなにをやるんだ?やっぱりさっきの物理の復習か?」
「いいえ。湊くんは理系科目はある程度できているみたいだから」
彼女が俺の目の前に置いたのは現代文の教科書だった。
「国語からいくわよ」
俺は思わず顔をしかめた。
「国語かぁ……俺あれ一番苦手なんだよな」
「どうして?」
「だって、国語って運ゲーじゃん」
雪乃宮さんの手がピタリと止まった。
冷ややかな視線が俺を射抜く。
俺はひるまずに持論を展開した。
「数学とか物理は定義や定理はしっかり暗記するけど、一応公式があって問題によってはそれで答えが決まるだろ。でも国語は違う。『この時の筆者の気持ちを答えよ』とか言われても知るかよって話だ」
俺は教科書をパラパラとめくった。
「作者だってその日の気分で適当に書いたかもしれないじゃん。それを後から他人が分析して正解を決めるなんておかしい。だから選択肢の運ゲーなんだよ」
言い切った俺に対して雪乃宮さんは深くため息をついた。
それは完全に哀れなものを見る目だった。
「湊くん。だからあなたは国語で点が取れないのよ」
「なっ、なんだよ」
「国語を感覚や感情で解こうとしている時点で間違っているわ」
彼女は手元のシャーペンで教科書の文章をコンコンと叩いた。
「現代文はね、運ゲーでも超能力テストでもない。純粋な論理のパズルよ」
「パズル?」
「そう。テストにおける『筆者の気持ち』というのは『実際の筆者がどう思っていたか』を聞いているわけじゃないの」
彼女の言葉は鋭く理路整然としていた。
「『この与えられたテキストの論理構造から導き出される、最も妥当な解釈はどれか』を聞いているの。答えは全てこの文章の中に文字として書かれているわ」
俺は瞬きをした。
「自分の感情や勝手な想像を持ち込むから間違えるのよ。接続詞に注目しなさい。対比構造を見つけなさい。本文に書かれていないことは絶対に選んではダメ」
雪乃宮さんのペン先が文章の中の「しかし」という言葉に丸をつけた。
「数学の公式と同じよ。ルールに従って本文から証拠を探し出すだけ。運が入り込む余地なんて1ミリもないわ。まぁ、採点者が厳しかったら全ては崩れるのだけど」
俺は目から鱗が落ちる思いだった。
国語が論理パズル。
そう言われるとなんだか急に自分でも解けるような気がしてくるから不思議だ。
「……なるほど。雪乃宮先生の言う通りかもしれない」
「わかればいいのよ。それじゃあさっそくこの評論文の構造を分解していくわよ。まぁ、この勉強法が果たして国語という科目名に相応しいのかは、疑問だけれど」
彼女の指導は容赦がなかった。
でもその理詰めの解説は俺の曇っていた国語への視界をクリアにしてくれた。
静かな教室にページをめくる音と彼女の凛とした声だけが響いていた。




