伝染モチベーション
7月上旬。
長くジメジメした梅雨がようやく明けた。
照りつける太陽とけたたましい蝉の鳴き声が本格的な夏の到来を告げている。
しかし俺たち高校生にとって、夏休みの前には巨大な壁がそびえ立っている。
夏休み前のテストだ。
朝、教室に入った俺は異様な光景を前に立ち尽くした。
「……うそだろ」
あの健太が机に向かって必死にノートへペンを走らせているのだ。
スマホもいじらず、ゲームの話もせず、ひたすらに英単語帳で目を反復させている。
「お、おはよう健太。熱でもあんのか?」
「……湊か。話しかけんな。今、俺の脳内HDDに単語をインストール中だ」
血走った目で健太が顔を上げる。
「ここで赤点とったら、親父にスマホ解約されるんだよ!俺の夏が終わっちまう!」
切実だった。
彼なりの命がけの戦いなのだろう。
ふと周りを見ると美咲ちゃんも真剣な顔で日本史の教科書を読んでいるし、他のクラスメイトたちもどこかピリピリしている。
この静かな熱気にあてられて、俺も少し焦りを感じ始めていた。
午後の物理は移動教室だ。
健太たちは「光合成のメカニズムを完璧にすることによって人としても完璧になる」と言い残して生物室へ向かった。
俺はいつもの教室へと足を運ぶ。
定位置になりつつある廊下側の席に座ると、隣には今日も雪乃宮さんが座り涼しい顔で予習をしていた。
「おはよう、雪乃宮さん」
「おはよう。今日はやる気に満ち溢れているわね」
彼女はノートを開いたまま小さく返事をした。
チャイムが鳴り、先生が黒板に図を描き始める。
「さて、今日は光の干渉についてだ。ヤングの二重スリット実験だな」
先生のチョークがカツカツと小気味よい音を立てる。
「光が波である証拠を示す重要な実験だ。二つのスリットを通った光がスクリーン上で重なり合い、明暗の縞模様を作る」
俺はノートに図を写しながら先生の話に耳を傾けた。
「スリットの間隔をd、スリットからスクリーンまでの距離をL、スクリーン上の中心からの距離をxとする。このとき二つのスリットからの経路差⊿は近似的にどう表されるか」
黒板に数式が書き込まれていく。
「この経路差が光の波長λの整数倍のとき、光の波の山と山、あるいは谷と谷が重なり強め合う。つまりmを整数としてdx/L= mλが明線の条件式だ」
隣を見ると、雪乃宮さんは完璧な字で数式を書き写している。
ただ公式を暗記するのではなく、微小な角度の近似を使った幾何学的な証明を頭の中で組み立てているのが伝わってくる。
「波長が長い赤い光の方が、青い光よりも縞模様の間隔が広くなる。これ、なんかテストに出てきそうって先生の耳に囁かれているぞー」
先生の言葉に、教室中のペンが走る音が一段と大きくなった。
誰も寝ていない。
みんな真剣に板書を写し、理解しようと脳をフル回転させている。
テスト前特有の研ぎ澄まされた空気感だ。
「……よし」
俺はシャーペンを握り直した。
健太でさえあんなに必死にやっているんだ。
俺だけが置いていかれるわけにはいかない。
部活もやっていないし、バイトもしていない。
俺には時間だけはたっぷりある。
ならせめて、目の前の勉強くらいは全力でやってやろうじゃないか。
暗記ではなく理屈で現象を解き明かす物理の面白さが少しだけわかってきた俺は、集中力を高めて黒板の数式と真っ直ぐに向き合い始めた。




