戦友
「ふぅ……さっぱりした」
もう一度風呂に入ったあとにドライヤーで髪を乾かし、俺はリビングに戻った。
結愛はソファの上で、俺が献上したプレミアムプリンを最後のひとすくいまで堪能していた。
「ん〜っ! やっぱり高いプリンはバニラビーンズの香りが違うね!」
「……そりゃどうも」
俺は向かいの椅子に座り、恐る恐る口を開いた。
「なぁ結愛。一つ聞いていいか?」
「ん?」
スプーンを咥えたまま、彼女が首を傾げる。
俺は自分の左頬、絆創膏が貼られているあたりを指差した。
「これ。……貼ったの、結愛か?」
一瞬の間。
彼女はスプーンを置き、悪戯っぽく目を細めた。
「……さあ? 誰だろうね?」
「とぼけんなよ。父さんたちはまだ帰ってないし、俺は記憶ないし」
「ふふっ」
彼女は立ち上がると、テーブル越しに身を乗り出し、俺の絆創膏の上から指で優しく撫でた。
「……寝言、言ってたよ。『逃げろ』とか『ふざけんな』とか」
彼女の声が少しだけ真面目なトーンになる。
「うなされてる顔見たら、ほっとけなかっただけ。……喧嘩でもしたの?」
ドキリとした。
核心を突かれている。だが、彼女の目は「問い詰める」というよりは、「心配している」色の方が強かった。
俺は視線を逸らした。
「……悪い夢を見ただけだよ。怪獣に追いかけられる夢」
「ふーん。怪獣ねぇ」
彼女はそれ以上追求せず、ニッコリと笑って俺の頭をポンポンと撫でた。
「ま、無事ならいいけど。……おやすみ、湊くん。明日は学校でしょ? 遅刻しないようにね」
「ああ。おやすみ」
彼女は空になったプリンの容器を持ってキッチンへと消えた。
俺は頬の絆創膏をそっと押さえた。
監視されている怖さはある。でも、その手当ての丁寧さに、俺は少しだけ救われたような気がしてならなかった。
翌朝。
快晴の通学路。俺はワイシャツ一枚で歩いていた。
「……涼しいな」
周りの生徒はまだブレザーを着ている者が多い。俺だけが季節を先取りした状態だ。
当然、校門指導の生活指導の先生に捕まった。
「おい、貴様。上着はどうした」
「あ、えっと……クリーニングに出しました! 昨日、ちょっと汚しちゃって」
「……そうか。なら仕方ないが、明日は着てこいよ」
「はい! 失礼します!」
嘘も方便。なんとか切り抜けた俺は、冷や汗を拭いながら教室へ入った。
ガラッ。
教室に入ると、いつもの喧騒があった。
そして、窓際の席に、見慣れた背中があった。
「……よう、健太」
俺が声をかけると、彼がゆっくりと振り返った。
「おう、湊。……早いな」
健太の顔を見て、俺は息を飲んだ。
頬にうっすらと青あざがあり、口の端が切れている。
昨日の激闘の証だ。
「……大丈夫か、それ」
俺が小声で聞くと、彼はニカッと笑ってVサインを作った。
「余裕余裕。階段から落ちたってことになってるから」
「階段かよ。ベタだな」
「うるせー。……で、あの子は?」
彼は声を潜めた。
「無事、送ったよ。……健太によろしくってさ」
「……そっか。ならいい」
健太はそれ以上何も聞かず、俺もそれ以上何も言わなかった。
「あの子」の名前も、連絡先を交換したことも、ブレザーを貸したことも。
多くを語る必要はなかった。
俺たちはただ、昨日の「共犯者」として視線を交わし、短く拳を突き合わせる真似事をしただけで十分だった。
「おはよー! 湊くん!」
そこへ、天使のような笑顔で美咲ちゃんが登校してきた。
「あ、美咲ちゃん。おはよ」
「おはよー健太くん。……あれ? 健太くん、顔どうしたの?」
「あー、これ? 名誉の負傷!」
「またゲームしててベッドから落ちたんでしょ?」
「なんでバレてんだよ!」
平和だ。
昨日の路地裏の修羅場が嘘のような、いつもの教室の風景。
俺はこの日常を守るために、昨日のことは墓場まで持っていこうと心に決めた。
ブブッ。
その時、俺のポケットの中のスマホが震えた。
(……結愛か? それとも父さん?)
俺は机の下でこっそりと画面を確認した。
そこには、見慣れないアイコンと、短いメッセージが表示されていた。
『送信者:Kai』
『おはよ。ブレザー洗濯中。
ってか、このシミ何? 醤油? お前、服で飯食ってるの?』
俺は思わず吹き出しそうになった。
灰だ。
感動的な別れはどこへやら、いきなり生活感あふれるダメ出しが飛んできた。
醤油のシミなんてつけてたか? チャーハン食った時か?
「湊くん? どうしたの?」
美咲ちゃんが不思議そうに俺を見ている。
「あ、いや! なんでもない! メルマガ! 変な迷惑メールが来てさ!」
俺は慌ててスマホをポケットにねじ込んだ。
やばい。
学校には美咲ちゃんという「正妻(仮)」がいて、家には結愛という「魔王」がいて、スマホの中には灰という「新キャラ」が侵入してきた。
俺の平穏な学校生活は、水面下で着実に、そして複雑に絡まり始めていた。
「……あーあ」
俺は窓の外の青空を見上げ、小さくため息をついた。
ブレザーが返ってくるまで、恐らく数日。
それまで俺は、この薄氷の上の平和を維持できるのだろうか。
予鈴のチャイムが、新たなトラブルの幕開けのように高らかに鳴り響いた。




