クソ映画とは。
『完』
スクリーンに安っぽい筆文字のエンドロールが流れ始めた。
館内が明るくなる。
俺はヘタリきった座席に沈み込んだまま、天井を仰いだ。
「……金返せ」
隣を見る。誰もいない。
俺の脳内シミュレーションでは、上映開始直後に「ここ、いいですか?」と謎の美女が現れ、ポップコーンの手が触れ合ったり、怖いシーンで抱きつかれたりするはずだった。
だが現実は、カビ臭い空気と、俺の濡れたタオルの生乾き臭が漂うだけのアラサー空間だった。
そして肝心の映画だ。
これがもう、言葉を失うほどの駄作だった。
最初は良かった。「お、硬派な時代劇か?」と思わせる重厚なスタートだった。
しかし、開始15分で雲行きが怪しくなった。
江戸の町並みなのに、背景にバッチリと「コインパーキング」の看板が見切れていたのだ。
そこからはもう、崩壊の一途を辿った。
忍者が「拙者の秘策!」と言って懐から取り出したのは、手裏剣ではなくサブマシンガン。
そして極めつけのラストシーン。
敵のボスが「分身の術!」と叫んで十人に増えたと思ったら、主人公が「見切った! あれは……プロジェクターだ!!」と叫び、電源コードを引っこ抜いて解決するという、SFなのかコメディなのかすら判別不能なオチだった。
「……1800円。俺の1800円が、プロジェクターの電源コードに消えた」
俺はフラフラと立ち上がった。
感動もカタルシスもない。あるのは「見てはいけないものを見てしまった」という疲労感だけだった。
「あのジジイ……文句の一つも言ってやる」
俺は怒りを胸に、ロビーへと出た。
「短ければいいってモンじゃねえだろ! 監督のエゴ以前に、脚本家の正気を疑うわ!」
あんな詐欺みたいな映画を、さも名作かのように勧めた罪は重い。
俺は足音荒くカウンターへと近づいた。
「おい、じいさ……」
怒鳴り込もうとした、その時だった。
「……ううっ、ぐすっ……」
カウンターの中から、鼻をすする音が聞こえた。
見ると、あの仙人が眼鏡を外し、ハンカチで目頭を押さえているではないか。
カウンターの下には小さなモニターがあり、そこには先ほどの映画のエンドロールが流れている。
どうやら、場内の映像をここで管理同期していたらしい。
「……まさか」
俺は絶句した。
泣いているのか? あの映画で?
忍者がサブマシンガンを撃ちまくり、プロジェクターのコンセントを抜く映画で?
「……やはり、名作じゃ」
仙人は涙声で呟いた。
「あのラストの電源コード……あれこそが、現代社会の虚構を断ち切るメタファー……ううっ、素晴らしい……」
(嘘だろ!?)
俺は心の中で盛大にツッコんだ。
どんな感性をしていれば、あのB級以下の映像からそんな深遠なテーマを読み取れるんだ。
この仙人、ただの映画好きじゃない。
「クソ映画を脳内で補完して名作に変換する能力」を持った、真の変態だ。
俺は振り上げた拳をそっと下ろした。
この人に文句を言っても無駄だ。住んでいる次元が違う。
俺は無言で出口のドアを押し開け、夜の街へと逃げ出した。
外に出ると、すっかり夜になっていた。
「……やばい!」
映画の衝撃で忘れていたが、時間が経ちすぎている。
俺はタオルを首に巻き直し、全速力で家路を急いだ。
父さんや義母さんが帰ってくる前に滑り込まなければ。
「はぁ、はぁ……ただいま!」
俺は勢いよく玄関のドアを開けた。
靴はない。よし、まだ誰も帰ってないか?
俺が安堵してリビングのドアを開けた、その瞬間だった。
「……おかえり、湊くん」
ソファーに、結愛が座っていた。
部屋の明かりは消えていて、テレビの光だけが彼女の顔を青白く照らしている。
「……あ、結愛」
「遅かったねぇ。どこ行ってたの?」
彼女の声は鈴のように可愛らしいが、その瞳は絶対零度だった。
「あ、いや、ちょっと散歩というか、映画というか……」
「へぇ。こんな時間まで?」
スッ。
彼女が立ち上がり、音もなく俺に近づいてきた。
そして、俺の耳元に顔を寄せた。
吐息がかかる距離。
甘い香りと、背筋が凍るような威圧感。
「……こんな遅い時間に出歩くなんて、悪い子だね?」
「ひっ!?」
俺の体がビクリと震えた。
ゾクゾクする。
恐怖と、そして少しの背徳感がない交ぜになった戦慄が全身を走る。
「す、すいませんでした!!」
俺は反射的に直立不動で謝罪した。
「うーん、どうしよっかなー」
結愛は楽しそうに俺の周りを一周した。
「お父さんに言っちゃおうかなー。『湊くんが濡れたまま夜遊びしてました』って」
「そ、それだけは!!」
父さんに知られたら、義母さんにも伝わる。
あの優しくて最強の義母さんを心配させるわけにはいかない。
俺は必死に脳を回転させた。
俺が持っているカードは何か。
金はない(映画で消えた)。
ブレザーもない(灰に貸した)。
あるのは……そうだ、冷蔵庫の中の最終兵器だ。
「結愛! これを!!」
俺は脱兎のごとくキッチンへ走り、冷蔵庫からとあるブツを取り出した。
「……プリン?」
「はい! コンビニ限定の、ちょっと高いプレミアムプリンです!」
俺の夜食用に隠しておいた虎の子だ。
「これを上げます! ……いや、差し上げます!!」
俺は両手でプリンを捧げ持ち、恭しく彼女に差し出した。
「どうかこれで、ご勘弁を……!」
沈黙が流れる。
俺は生唾を飲み込んで、彼女の裁定を待った。
数秒後。
「……やったー!」
パァッ! と結愛の顔が輝いた。
さっきまでの魔王のオーラが霧散し、ただのスイーツ好きの少女に戻る。
「これ食べたかったんだよねー! さすが湊くん、わかってるぅ!」
彼女はプリンをひったくると、ご機嫌でスプーンを取り出した。
「んじゃ、今回は見逃してあげる!」
「あ、ありがとうございます……」
彼女はスキップでリビングのソファに戻り、テレビの前でプリンを開封した。
そして、一口食べて幸せそうな顔をした後、振り返って言った。
「あ、あとさ。湊くん」
「は、はい!」
「ちゃんと髪、乾かしたほうがいいよー? 風邪引くからね」
ニコリ。
それは純粋な姉としての優しさだった。
「……はい、すぐ乾かします」
俺は脱力し、その場に崩れ落ちそうになった。
助かった。
1800円とプリン一つを失ったが、家庭の平和は守られた。
俺はドライヤーを取りに洗面所へ向かいながら、ジェットコースターのような一日の終わりに、深く長い安堵のため息をついた。
機嫌が直って本当によかった。これなら明日の朝も、書き置き一枚で済まされることはないだろう。
俺は髪を触る。すでに乾いていた。




