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身分証明書の消失

 コンビニの自動ドアを抜け、俺は夜の路上で深いため息をついた。

 手には真っ白な、いかにも「業務用です」と主張しているような安物のフェイスタオル。

 俺はそれをガシガシと頭に押し当て、まだ滴り落ちる雫を乱暴に拭き取ると、そのまま首にぐるりと巻き付けた。


 ふと、ショーウインドウに映る自分の姿を見る。

 Tシャツ、ジーンズ、サンダル。そして濡れた髪に首巻タオル。

「……なんだこれ」

 そこにはまるで「たった今、銭湯から湯冷めしないように瞬間移動してきました」と言わんばかりの男が立っていた。


 夜の街を濡れ髪で歩くという行為が、あまりにも不審者めいていたからタオルを買ったのだ。

 身だしなみを整え、市民権を得ようとしたはずだった。

 だが現実はどうだ。

 タオルを巻いたことで、「濡れた髪の変な奴」から「風呂上がりの徘徊者」へとジョブチェンジしただけではないか。


 「不審者をやめるためにタオルを買ったのに、その先にあるのはまた別の不審者……」

 俺は乾いた笑いを漏らし、夜空に向かって呟いた。

「……不審者マトリョーシカかよ」

 剥いても剥いても中から不審者が出てくる。

 俺という存在のコンセプトそのものが、今夜はエラーを起こしているらしい。

 

 開き直った俺はタオルをマフラーのようになびかせながら、適当に路地裏を歩いた。

 駅前の大通りから一本入っただけなのに、街灯は少なくなり、昭和の香りが色濃く残るスナック街が広がる。

 そんな薄暗い通りの突き当たりに、奇妙な看板が光っていた。


 『シネマ・オアシス』


 ネオン管の一部が切れかけ、チカチカと不規則に瞬いている。

「……映画館?」

 初めて見た。

 この街には駅前に巨大な映画館がある。俺たち学生が映画と言えばそこだ。ポップコーンの甘い香りと最新の設備、カップルだらけの煌びやかな場所。


 だが、目の前にあるのはそれとは対極の存在だった。

 手書きのポスター。色褪せた上映スケジュールの看板。入り口から漂う、カビと埃と古紙が混じったような独特の匂い。

「へぇ……こんな所に、こんなこじんまりした映画館があったのか」

 俺は吸い寄せられるように近づいた。

 時代に取り残されたようなその佇まいに、妙なロマンを感じてしまったのだ。

 不審者マトリョーシカの俺には、この場末の雰囲気が実にお似合いだ。

 看板を見る。

『学生割引:一律500円』

「安っ!」

 あそこの半額以下だ。これなら財布へのダメージも最小限で済む。

 ふと、俺は脳内で時間を計算した。

 今は19時前。

 今日は父さんも義母さんも、そして結愛もおそらく帰りが遅いと言っていた。

「……いけるか?」

 今から映画を一本観て、感動に浸りながら帰っても、誰かが帰宅する前に家に滑り込めるかもしれない。

 ただし、条件がある。

「短い映画なら、いける」

 俺は決意を固め、重厚なガラス扉を押し開けた。

 

 ロビーは静まり返っていた。

 客の姿はない。あるのは、壁一面に貼られた古今東西の映画ポスターと、中央に鎮座するチケットカウンターだけ。

 そこには、一人の男が座っていた。

 いや、「同化していた」と言うべきか。


 白髪、白い髭、そして作務衣のような服。

 その姿は映画館の受付というよりは、山奥で霞を食って生きている仙人のようだった。

 彼は手元の文庫本からゆっくりと視線を上げ、丸眼鏡の奥から俺をじろりと見た。

 「……いらっしゃい」

 声枯れした、重みのある声。

 俺はカウンターに歩み寄り、単刀直入に尋ねた。

「あの、今からやってるやつで……一番短いのってどれですか?」

 言った瞬間、しまったと思った。

 映画館に来て「内容」でも「ジャンル」でもなく、「尺の短さ」で選ぶなんて。

 これは映画を作った監督への冒涜であり、この映画の守り人である仙人への最大の侮辱ではないか。

 怒られる。あるいは「帰れ」と塩を撒かれるかもしれない。

 俺は身構えた。

 しかし。

 仙人の目が、カッ! と見開かれた。

「……ほう」

 彼は眼鏡の位置を直し、俺をまじまじと観察した。

 侮蔑ではない。そこにあるのは、深い共感と称賛の色だった。

「お主……わかっておるな」

「え?」

「昨今の映画は長すぎる! 2時間半? 3時間? 冗長だ! 実に嘆かわしい!」

 仙人はカウンターをバンと叩き、身を乗り出した。

 俺が「あ、いや、ただ時間がなくて……」と口を挟む隙などなかった。

 

 「みなまで言うな、若人よ。映画とは凝縮の芸術じゃ」

 仙人の演説が始まった。


「ダラダラと長い映画よりも、90分……いや、80分でバシッと決まる映画こそが至高! 無駄なシーンを削ぎ落とし、観客の想像力に委ね、カタルシスへと疾走する! それこそが映画の醍醐味よ!」

 彼は熱弁を振るう。

「最近の監督はエゴが強すぎる。削る勇気を持たん。いいか、短い映画というのは手抜きではない。それは宝石の原石を磨き上げ、不純物を取り除いたダイヤモンドのような……」


 (……長い)

 皮肉なことに、短い映画を愛する仙人の話は、長編映画並みに長かった。

 このままでは映画の上映時間が終わってしまう。

 俺は意を決して、仙人の言葉を遮るように財布から500円玉を取り出した。

「わかりました! そのダイヤモンドをください! 学生一枚!」

 無理やりカウンターに硬貨を叩きつける。

 仙人はハッとして現実に引き戻され、少し残念そうに、しかし満足げに頷いた。

「よかろう。今の時間なら『荒野の用心棒・疾風編』、上映時間は48分じゃ。まさに宝石」

「それでお願いします!」

 俺は勝利を確信した。

 48分。完璧だ。これなら余裕で帰れる。

 500円玉を押し出し、チケットを受け取ろうとした、その時だった。

 「では、学生証を見せてくれ」

 

 「……あ」

 時が止まった。

 俺の脳裏に、家のソファに転がっている通学カバンの映像がフラッシュバックした。

 そうだ。

 俺は今日、「財布と鍵だけ」を持って家を飛び出したのだ。

 手ぶらだ。スマホすらない。

 当然、学生証が入った定期入れも、カバンの中だ。

 「……あの、忘れました」

「ならん」

 仙人の顔が、映画愛好家から厳格な受付の鬼へと変わった。

「証明なき者は大人じゃ。規則は規則」

「そ、そんな……見た目どう見ても高校生でしょ!?」

「濡れた髪にタオルの若者など、年齢不詳の極みじゃ」

 ぐうの音も出ない。

 俺は震える手で、財布から千円札をさらに取り出した。

「……大人一名、お願いします」

「うむ。1800円じゃ」

 500円の予定が、3倍以上の出費。

 俺の小遣いが、仙人の無慈悲なレジスターに吸い込まれていく。


 「はい、どうぞ」

 チケットが手渡された。

 半泣きでそれを受け取った俺の目の前で、仙人はそのままカウンターの横にある小さなバーを持ち上げた。

「どうぞ、スクリーンは右じゃ」

「……え?」

 カウンターだと思っていた場所。

 そこは、チケット売り場兼、入場ゲートだったのだ。

 俺が受け取ったチケットは、仙人の手によって即座に半分にちぎられ、「もぎり済み」として返された。

 (……これ、チケットの意味ある!?)


 ここで金払って、そのままここを通るなら、レシートでよくないか!?

 実質、通行手形としての機能すら果たしていない、ただの記念紙切れと化したチケットを握りしめ、俺はよろよろと暗闇へ足を踏み入れた。

 

 劇場内は、俺以外に客がいなかった。

 貸切だ。1800円で貸切なら安いものかもしれないが、今の俺には慰めにもならない。

 真ん中の席にドカッと座る。

 スプリングが少しヘタっていて、お尻が沈み込む。

 カビ臭い空気が、俺の不審者スタイル(濡れ髪タオル)と妙にマッチしていた。


 「……ちくしょう」

 スクリーンに光が走り、古い映写機特有のカタカタという音が響き始める。

 短い映画は素晴らしい?

 監督のエゴ?

 知るかバーカ!

 俺は心の中で盛大に悪態をつきながら、高額な授業料を払って手に入れた48分間の逃避に、身を委ねることにした。

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