不審者、夜風を喰らう
「……待てよ?」
シャワーを浴びながら、俺はふと脳内で計算式を弾いた。
現在時刻は18時前。
一日は24時間。
つまり、俺の手元にはまだ6時間も残されていることになる。
「一日の四分の一以上……まだ終わってないじゃん!」
俺はカッと目を見開いた。
野球で言えばまだ7回裏。サッカーなら後半30分。逆転可能な時間だ。
「勝てる……! 今日の俺はまだ負けてない!」
謎のポジティブ思考が爆発した。
俺は風呂から上がると、タオルで体を拭くのもそこそこに、ドライヤーを無視した。
髪を乾かす時間すら惜しい。
ポタポタと滴る水滴など気にせず、俺はTシャツとジーンズに着替えた。
「行くぞ、夜の俺!」
持ち物は財布と鍵だけ。スマホすら置いていく。
デジタルデトックスの続きだ。
俺は濡れた髪を振り乱し、勢いよく玄関のドアを開けた。
「……うまい」
外に出た瞬間、俺は大きく深呼吸をした。
夜の空気は、昼間の淀んだ室内の空気とは比べ物にならないほど澄んでいた。
湿り気を帯びたアスファルトの匂い。遠くの飲食店の換気扇から漂う夕食の香り。
それら全てが「自由」の味がした。
「さて、どこへ行こうか」
俺はあてもなく歩き出した。
髪から冷たい雫が首筋を伝うが、それすらも心地よい。
俺は今、生きている。
そう実感しながら大通りへ出ると、キョロキョロと辺りを見回している一人の少女がいた。
セーラー服ではなく、私服のワンピースにカーディガン。
背中には大きなリュック。
手にはクリアファイルを持ち、不安そうにスマホと周囲の景色を交互に見ている。
「……迷子か?」
気分が最高潮に良かった俺は、普段ならスルーする場面で声をかけた。
「よう。どうしたの?」
少女がビクッと肩を震わせて振り返る。
「あ、あの……」
彼女は俺の顔を見て、次に俺の頭を見た。
そして、その目が点になった。
(……うわ、なにこの人。髪ビショビショなんだけど)
心の声が聞こえるほどのドン引き顔だ。
あからさまに一歩引かれたが、俺のメンタルは鋼鉄化しているのでノーダメージだ。
「えっと、その……」
彼女は引きつった笑顔で、しかし必死に言葉を紡いだ。
「いま中三で、受験生なんですけど……夏休みは塾の夏期講習に行けってお母さんがうるさくて……」
「ほうほう」
「で、今日初めて面談? 説明会? を受けに行くんだけど、お母さんが急に仕事入っちゃって来れなくなって……」
彼女は言葉に迷っていた。
この濡れ鼠のような年上の男に対し、敬語を使うべきか、それとも変質者として通報すべきか、あるいはタメ口でいいのか。
「だから、塾の名前しか知らなくて……場所がわからなくて……あの、です」
その「敬語とタメ口のハイブリッド」な喋り方に、俺は不覚にも目頭が熱くなった。
(わかるぞ……その距離感の測り方。思春期特有の『大人への不信感』と『礼儀』の狭間で揺れる葛藤……!)
俺は勝手に感動し、涙ぐみそうになった。
「なるほどな。で、どこの塾?」
「えっと……『北辰進学スクール』っていう……」
「あー! そこか!」
俺はポンと手を打った。
かつて俺自身が通っていた塾だ。あそこの自習室の椅子の硬さは今でも覚えている。
「そこなら簡単だ。この道を真っ直ぐ行って、二つ目の信号を右。大きな郵便局があるから、その向かいのビルの3階だよ」
俺は身振り手振りを交えて教えた。
「看板が出てるからすぐわかるはずだ」
「あ、ありがとうございます……!」
彼女の顔がパッと明るくなった。
情報は得た。あとは行くだけだ。
俺は親切心(と、あわよくば少し話したい下心)から、最後にこう付け加えた。
「不安なら、一緒に行こうか? 俺も暇だ――」
「あ、いいです。大丈夫です」
食い気味の即答だった。
「へ?」
「道、覚えたんで。……それじゃ」
彼女はペコリと頭を下げると、俺が教えた道を競歩のような速さで去っていった。
迷いがない。完璧な方向転換だ。
濡れた髪の不審者と一緒に歩くリスクと、一人で夜道を歩くリスクを天秤にかけ、瞬時に後者を選んだのだ。
「……そりゃそうだよな」
俺は取り残された歩道で、自分の前髪を触った。
冷たくて、ビショビショだ。
「風邪ひきそう……」
さっきまでの「残り25%の全能感」が、夜風と共に急速に冷えていくのを感じながら、俺はとりあえず乾いたタオルを求めてコンビニへ向かうことにした。




