虚無感
「よし、食った! ……出かけるか!」
俺はパンパンに膨れた腹をさすりながら立ち上がった。
義母さんの作った武闘派チャーハンと餃子は、俺の全身に爆発的なカロリーを充填してくれた。
このエネルギーを無駄にしてはいけない。
外へ出よう。本屋に行くもよし、ゲームセンターで時間を潰すもよし。とにかく、この広い家に一人でいる閉塞感を打破するんだ。
「……まずは、ちょっと休憩だな」
俺はリビングのソファに腰を下ろした。
あくまで「一時的な休憩」だ。
消化を助けるための、戦略的なアイドリング。
俺はポケットからスマホを取り出し、画面をタップした。
時刻は13時14分。
「13時半になったら動こう」
そう自分に言い聞かせ、俺は動画アプリのアイコンを親指で弾いた。
そこからの記憶は、水飴のように引き伸ばされ、そして溶けていった。
画面の中では、海外の誰かが巨大な氷を割るだけの動画が流れている。
次は、猫がキュウリに驚いて跳ねる動画。
その次は、料理を失敗してキッチンを爆発させる動画。
15秒から60秒の、脈絡のない断片的な映像。
それを俺の脳は「情報」として処理することなく、ただ網膜を通過する「光の刺激」として受け流していた。
スッ、スッ。
親指が機械的に画面をスワイプする。
この動作一回につき、俺の人生から数十秒が削り取られていく。
だが、やめられない。
「次こそ面白い動画が出るかもしれない」という微かな期待と、考えることを放棄した脳の快楽が、俺をソファに縫い付けていた。
気がつけば、俺の体勢は座っている状態から、背もたれに深く沈み込み、やがて重力に完全敗北して横になっていた。
クッションの位置を調整し、スマホを持つ手の角度を変える。
この無駄な最適化だけは天才的だ。
時刻表示を見る。
15時42分。
「……嘘だろ?」
俺は2時間以上、他人の人生の切り抜きを見て過ごしていたのか?
戦慄する。しかし、その戦慄さえも「あと一本だけ」という惰性に飲み込まれていった。
「……ダメだ。このままじゃ人間がダメになる」
俺は最後の力を振り絞り、スマホをテーブルに裏返しで置いた。
デジタルデトックスだ。
俺はカバンの底から、一冊の本を取り出した。
『これ、すごく面白いから読んでみて! 絶対、湊くんも好きだと思う!』
以前、美咲ちゃんが家に来た時に熱弁し、後日学校で「貸してあげる!」と渡されたハードカバーの小説だ。
タイトルは『深淵の果て、螺旋の記憶』。
帯には「全米が震撼」「圧倒的筆致で描くSF巨編」の文字。
「……よし」
俺は居住まいを正し、ページを開いた。
パラッ。
目に飛び込んできたのは、ページを埋め尽くす文字の壁だった。
二段組。細かい明朝体。
行間は狭く、余白は最小限。
さらに冒頭から『西暦2400年、第8次星間条約の締結により、人類は旧支配領域の……』という、漢字とカタカナの暴力が襲いかかってきた。
「……」
俺の脳が、緊急停止信号を発した。
さっきまで「猫が跳ねる動画」でふやけていた脳味噌に、この高密度の情報は劇薬すぎる。
一行読むごとに、目が滑る。
三行進んで、二行戻る。
登場人物の名前が覚えられない。
「えーっと、この大佐は誰だっけ……?」
ページを戻る指が重い。
美咲ちゃんは、このレンガのような物体を「一日で読んだ」と言っていた。
あの子の頭の中はどうなっているんだ? 文学少女のスペックが高すぎる。
パタン。
俺は静かに本を閉じた。
しおりの位置は、4ページ目だった。
「……また今度、コンディションが良い時に読もう」
俺は自分への言い訳を呟き、本をそっとテーブルの端に置いた。
それは積読という名の墓標に見えた。
ふと、部屋の中が暗くなっていることに気づいた。
「……あ」
俺はのっそりと起き上がり、カーテンを開けた。
窓の外は、鮮烈な茜色に染まっていた。
太陽が地平線に沈みかけ、空と街並みを燃やしている。
いわゆるマジックアワー。
本来なら美しいはずのその光景が、今の俺には死刑宣告のように見えた。
「終わった……」
俺の休日が。
貴重な24時間が。
何もしないまま、ただ呼吸をし、スマホを眺め、本を4ページ読んだだけで、灰のように燃え尽きてしまった。
外では、部活帰りの学生の声や、買い物帰りの主婦の自転車の音が聞こえる。
世界は動いている。みんな、何かを成し遂げ、何かを得て、一日を終えようとしている。
なのに俺は、この薄暗い部屋で、誰とも会話せず、何も生み出さず、ただ時間の死骸を積み上げただけだ。
「……虚しっ」
俺は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
無精髭が生えかけ、髪はボサボサ。目には生気がない。
頬に貼られた謎の絆創膏だけが、昨日の「主人公だった俺」の名残として白く浮き上がっていた。
「……風呂、入ろ」
俺は逃げるようにカーテンを閉めた。
夜が来る。
孤独で静かで、そしてまた結愛や家族が帰ってくる現実の時間が、すぐそこまで迫っていた。




