シャツの秘め事
「……さてと、そろそろ帰るか」
「うん。……今日はありがとね、湊」
「おう。気をつけて帰れよ、灰」
ブランコから立ち上がり、俺たちは自然に言葉を交わした。
ほんの数時間前までは赤の他人。
しかも、関わってはいけないと言われていた他校の「異分子」。
それが今や何年も連れ添った悪友のように、肩の力が抜けた関係になっていた。
俺たちは公園の出口で、左右反対の道へと歩き出した。
十歩、二十歩。
背中が遠ざかる。
俺はふと思い出し、足を止めて振り返った。
「おい、灰!」
「ん?」
彼女も足を止め、俺のブレザーを羽織ったまま振り返る。
俺は手を口元に添えて叫んだ。
「ちゃんと洗濯して返せよなー!!」
夜の住宅街に俺の声が響く。
感動的な別れの言葉でも、甘いセリフでもない。
あまりに生活感溢れる、現実的な要求。
灰は一瞬きょとんとして、すぐに吹き出した。
「……っ、バッカじゃないの!?」
彼女も負けじと声を張り上げた。
「洗濯とかのこと言うの、普通は借りた側でしょーが!!」
「うるせー! 貸した側にも権利はあるんだよ!」
「はいはい、わーってら! クリーニング出してピッカピカにして返すから、覚悟しろよ!」
彼女は大きく手を振り、クルリと背を向けた。
俺も苦笑しながら手を振り返し、再び歩き出した。
このやり取りができるなら、もう大丈夫だ。あいつは強い。
(……湊くん、かぁ)
一人になった帰り道。
私は少し大きすぎるブレザーの襟を、鼻先まで引き上げた。
そこには汗と制汗スプレー、そして彼自身の体温が染み付いている。
「……あったかい」
私は立ち止まり、街灯の下で自分の影を見つめた。
スラックスを履いた、男の子のような影。
でもその影に重なるように、今の私の心には、今まで必死に蓋をしてきた「ある感情」が芽吹いていた。
「……ズルイじゃん、あんなの」
『知るかバーカ!』
あの屈託のない笑顔。
性別の悩みなんて吹き飛ばすような乱暴で温かい肯定。
彼女はブレザーを強く抱きしめ、誰にも見せられないとろけるような甘い表情を浮かべた。
それは男装の麗人でも生意気な不良少年でもない。
ただの「恋する女の子」の顔だった。
「……絶対、返しに行くからね」
私は小さく呟くと、スキップでもしそうな足取りで夜道へと消えていった。
俺は自分の二の腕をさすりながら、小走りで家路を急いでいた。
「……うぅ、さむっ」
ブレザーを貸してしまったせいでワイシャツ一枚だ。
「日中はあんなに暑かったのに……夜は冷えるなぁ」
昼間の熱気はどこへやら。
季節の変わり目の夜風が、汗ばんだ肌を容赦なく冷やしていく。
物理的な寒さだけじゃない。
あのアイスを食べた時の健太との温かい時間や、灰との熱い会話が終わってしまった寂しさも、寒さに拍車をかけている気がした。
「……帰ったら、結愛になんて言おう」
ブレザーがない理由。
遅くなった理由。
そして、あの人質事件のこと。
考えるだけで胃が痛くなる。
俺は寒さに震えながら、再び「日常」という名の戦場が待つ我が家へと足を速めた。




