共感の拒絶と肯定
「……わからないよ」
俺は正直に答えた。
「灰のその苦しみも男として生きたいという切実な願いも、俺には想像することしかできない。本当の意味ではわからない」
「……そうだ、よね」
灰は力なく笑い、視線を地面に落とした。
ブランコの揺れが止まる。
期待した自分が馬鹿だった、と言わんばかりの落胆。
俺はそんな彼女の顔を見つめたまま、言葉を続けた。
「だからこそ、いいんだと思う」
「……は?」
彼女が怪訝な顔で顔を上げた。
「わからないからこそ、灰の悩みは本物なんだ」
俺はゆっくりと、自分の考えを紡いだ。
「もし俺がここで『わかるよ、辛いよね』なんて簡単に言っちゃったらさ……灰が今まで何年も一人で抱えて、真剣に悩んできたその時間そのものが、すごくちっぽけで簡単なものみたいになっちゃうだろ?」
彼女の瞳が揺れた。
「そんなの、あまりに悲しいじゃないか」
俺は夕暮れの空を見上げた。
「時間ってやつは誰にでも平等に与えられてる。でも、その中身は人それぞれ全然違うんだ。俺がのうのうと過ごしてきた1時間とあんたが鏡の前で自分の身体と戦ってきた1時間は、重さも色も違う」
他人が容易く理解できるような悩みなら、彼女はこんなに傷ついていない。
理解できないということは、それだけ彼女が積み上げてきた葛藤の時間が誰にも侵せないほど重く、固有のものであるという証明だ。
俺はその「わからなさ」こそを尊重したかった。
「灰の時間は、灰だけのものだ。誰にもわからなくていいし、誰にも奪わせちゃいけないんだよ」
灰はポカンと口を開けていた。
そんな理屈、初めて聞いたという顔だ。
俺はブランコから立ち上がり、彼女の前に立った。
「だからさ、その違いに気づかない連中には……さっきの男たちみたいに勝手な物差しで測ってくる奴らには、こう言ってやればいいんだ」
俺は息を吸い込み、ニカッと歯を見せて笑った。
今日一番の、いや人生で一番アホで一番晴れやかな笑顔を作って。
「知るかバーカ!! ってな!」
「……っ」
俺の声が公園に響いた。
あまりに単純で乱暴で、子供じみた言葉。
でもそれは彼女を縛り付けていた「性別」や「常識」という呪いを断ち切るには、十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
「……ふっ」
灰の肩が震えた。
「あはは……! なにそれ……!」
彼女は腹を抱えて笑い出した。
「『知るかバーカ』って……! 優等生くんが言うセリフじゃないよ、それ!」
「……いいんだよ。たまには馬鹿にならないと、やってらんないだろ?」
「あはは! ほんとだ、バカみたい!」
彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
それは恐怖の涙ではなく、笑いすぎた生理的な涙かあるいは何かが吹っ切れた証だった。
「知るかバーカ、か……。うん、いい響き」
彼女は袖で涙を拭い、俺を見てニッと笑い返した。
「……ありがと。なんか、スッとした」
その笑顔はさっきまでの儚い少女のものでも、無理して作った少年のものでもなく、ただの「灰音 灰」という一人の人間のとても魅力的な笑顔だった。
夕日が完全に沈み、一番星が光り始めていた。
俺たちは笑い合い、重たかった空気が夜風と共にどこかへ消えていくのを感じていた。




