すれ違いのカルテ
「……灰。灰音灰」
彼女は足元の砂を見つめたままぽつりと呟いた。
「カイ……?」
俺が聞き返すと、彼女は自嘲気味に笑った。
「そう。燃え尽きた灰でカイ。……変な名前でしょ」
彼女はブランコを小さく揺らしながら語り始めた。
「生まれた時、書類の手違いか何かで性別が『男』として登録されかけたらしいの。親も男の子が欲しかったみたいで、そのまま男っぽい名前をつけたんだって」
「……そうだったのか」
「笑っちゃうよね。戸籍は女なのに、名前だけは男。……でもね、あたしそれが嫌いじゃなかった」
彼女は自分のスラックスの膝をぎゅっと握りしめた。
「スカートなんて、一度も履きたいと思ったことない。フリフリの服も、お人形さんも嫌いだった。……男の子みたいに短パン履いて泥だらけになって遊んでる時だけが、自分が自分らしくいられる気がしたんだ」
彼女はその口を動かし続ける。
「中学に入っても高校に入っても、あたしはずっとズボンを選んだ。あの学校は制服の規定が緩いから、男子のシャツを着てても文句言われないし」
彼女は俺が貸したブレザーの襟を掴んだ。
「男の子のように振る舞って男言葉を使って、男連中と肩並べて歩いて……そうしてるとね、少しだけ自分のことが好きになれたの。灰って名前もしっくりきた」
彼女の声が少し弾んだ。
それは彼女にとっての黄金時代、あるいは自分を守るための聖域だったのだろう。
自分の心を形にするための、必死の抵抗。
それがあの淡い青色のシャツであり、スラックスだったのだ。
だが、彼女の声はすぐに沈んだ。
「……でも、ダメなんだよね」
彼女は自分の胸元に視線を落とした。
さっき引き裂かれたシャツの上から、今は俺のブレザーが覆っている場所。
「体が大きくなるにつれて……どうしようもなく女になっていく」
彼女の声が震え始めた。
「身長は止まるし胸は出てくるし、肌だって……どんなに日焼けしても男のそれとは違う。鏡を見るたびに突きつけられるの。『お前は女だ』って」
さっきの路地裏での男たちの言葉が蘇る。
『いい身体してんじゃん』
『男をイラつかせてるって自覚あんのか』
それは彼女にとって、暴力以上の猛毒だったはずだ。
必死に築き上げてきた「カイ」というアイデンティティを、生物学的な事実だけで粉々に砕かれたのだから。
「男みたいに振る舞えば振る舞うほど周りは面白がるか、気持ち悪がるか、あるいは……さっきみたいに『そういう目』で見てくる」
彼女はブランコの鎖に額を押し当てた。
「最近、思うんだ。あたしがやってきたことって、全部無駄だったのかなって」
キィ、キィ。
錆びついたブランコの音が、彼女の嗚咽のように響く。
「男になれるわけでもないのに男のフリして。女として生きるのも嫌で、中途半端に足掻いて……。自分の行動すべてが、空回りしてるみたい」
ブランコは揺れる。
前へ、後ろへ。
一生懸命漕いでも、結局は元の場所に戻ってくるだけ。
彼女の人生もまた、理想と現実の間を行ったり来たりしながら、どこにも辿り着けない焦燥感に苛まれているようだった。
「……優等生くんにはわかんないよね。こんな気持ち」
彼女は潤んだ瞳で俺を見た。
その瞳は、夕焼けの色を反射して、灰色ではなく悲しいほどに透き通っていた。
俺は言葉を探した。
「わかる」なんて言えば嘘になる。
「そんなことない」なんて言えば無責任になる。
俺にできるのはただ隣のブランコに座り、彼女の「空回り」の風を一緒に受けてやることだけだった。




