錆びついたブランコ
「――おい! 待ちやがれ!!」
背後から汚い怒号が聞こえてきた。
あのリーダー格の男だ。
健太の一撃で悶絶していたはずだが、執念で声を張り上げているらしい。
「……健太」
俺は走りながら振り返ろうとした。
あいつ一人を残してきてよかったのか?
多勢に無勢だ。今からでも戻って加勢すべきじゃ……。
「っ……」
俺の肩に回された手に、ギュッと強い力が込められた。
見ると少女が、青ざめた顔で首を横に振っていた。
その瞳は恐怖で見開かれている。
『戻らないで』
声にならないその意志が、俺の迷いを断ち切った。
「……クソッ」
俺は走りながらポケットからスマホを取り出し、震える指で『110』をタップした。
「警察ですか! 事故です! 場所は駅裏のコンビニの……!」
要件だけを早口で告げ、俺は通話を切った。
健太、頼むから無事でいてくれ。
俺は少女の背中を支え直し、さらに足を速めた。
路地裏から数ブロック離れた、古びた公園。
もうここまで来れば大丈夫だろう。
「……少し、休もう」
俺たちは息を切らして、公園の入り口に辿り着いた。
夕暮れ時の公園には誰もおらず、錆びついた遊具が長い影を落としている。
俺は記憶の片隅に追いやられていたブランコに、少女を座らせた。
「……はぁ、はぁ」
彼女は肩で息をしながら、ブランコの鎖を強く握りしめている。
俺も隣のブランコに腰を下ろし、乱れた呼吸を整えた。
ふと、横を見る。
「……あっ」
俺は思わず声を上げ、すぐに視線を逸らした。
彼女のシャツだ。
さっきの路地裏で引き裂かれ、ボタンが弾け飛んでいる。
走ったせいでさらに乱れ、白い肌とインナーが露わになっていた。
(やばい、これじゃ帰れないだろ……)
俺は慌ててカバンを探った。
教科書、ノート、そして……あった。
底の方に押し込まれていた、紺色の布地。
「……これ、着て」
俺はカバンからブレザーを取り出し、彼女の肩にかけた。
「……え?」
「今日の全校集会、服装規定が厳しくてさ。暑いから置いていこうかと思ったんだけど、一応持ってきてたんだ」
持ってきて正解だった。
もしこれがなかったら、彼女はこの姿で家まで帰らなければならなかった。
俺のブレザーは彼女には少し大きく、袖が余っている。
彼女はおずおずと腕を通し、前を合わせた。
「……あったかい」
彼女が小さく呟いた。
強張っていた頬が緩み、張り詰めていた糸が切れたように目を細める。
その表情は、さっきまでの鋭い「不良少女」の顔ではなく、年相応のあどけない少女のものだった。
「人の体温って……こんなにするんだ」
彼女はブレザーの襟元を掴み、愛おしそうに匂いを嗅ぐような仕草をした。
そこには俺が一日持ち歩いていた熱と、俺自身の体温が残っているはずだ。
ドキリとした。
そんなことを言われると、なんだか間接的に抱きしめているようで恥ずかしい。
俺は照れ隠しに、つい余計なことを口走った。
「いや、それは……今日、日中暑かったからな」
俺は真顔で解説した。
「カバンの中に入れてたから熱が籠もってたのと、あとカバンとの摩擦熱とか、気温の影響だろ。俺の体温っていうか、物理的な熱エネルギーの残留だよ」
ロマンの欠片もない。
自分でも何を言っているんだと思うが、口が止まらなかった。
「……」
彼女の目が点になった。
そして、呆れたように唇を尖らせた。
「……バカじゃないの?」
「なっ」
「せっかくイイ雰囲気だったのに。……これだから優等生くんは」
彼女はフンと鼻を鳴らし、ブランコを少しだけ揺らした。
「……でも、サンキュ」
そっぽを向いたまま、彼女は小さく言った。
その耳が夕焼けよりも少しだけ赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
錆びついたブランコの鎖が、キィ、キィと鳴る。
遠くでカラスの声が聞こえる。
俺たちは並んで揺られながら、言葉少なに夕暮れの時間を共有していた。
名前も知らない、制服の色も違う二人。
けれど俺のブレザーを着た彼女との間には、不思議な連帯感が生まれていた。




