コンクリートの空
「警察を呼ぶぞ! お前ら、そこまで――」
俺は腹の底から声を張り上げ、リーダー格の男の前に立ちはだかった。
はずだった。
次の瞬間、視界が世界ごと反転した。
ドサッ。
「……あれ?」
俺の目には、路地裏の狭く切り取られた空が見えていた。
背中には、冷たく硬い感触。
小石が食い込む痛み。
アスファルトの匂い。
(……あ、俺、倒れてるのか?)
思考と現実がズレている。
殴られた痛みよりも先に、自分が地面に仰向けになっているという事実が、遅れて脳に届いた。
あまりにも速かった。
俺が言葉を発した瞬間、男の拳が俺の顔面を捉え、意識を刈り取るよりも早く肉体を吹き飛ばしていたのだ。
「湊ッ!!」
悲鳴のような声が響いた。
健太が俺のそばに滑り込み、上半身を抱え起こす。
「おい! しっかりしろ! 湊!」
「……う、あ……」
口の中に鉄の味が広がる。
唇が切れたのか、それとも口の中を噛んだのか。
視界がグラグラと揺れる中、健太の顔がアップになった。
彼は蒼白な顔で、震える声で言った。
「……ごめん」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが逆撫でされた。
なんで謝るんだ?
お前が悪いわけじゃない。
それに、その謝罪はまるで「巻き込んで悪かった」と言われているようで、無性に腹が立った。
「……謝るな」
俺は健太の手を振り払い、ふらつく足で無理やり立ち上がった。
俺はまだやれる。
ここで引いたら、あの子はどうなる。
「だ、伊達に……毎日……」
俺は構えようとした。
しかし、暴力は待ってくれない。
「うるせぇよ、雑魚が」
男の足が、俺の腹部に突き刺さった。
ドゴォッ!!
「がはっ……!?」
空気が肺から強制排出される。
俺の体は枯れ葉のように後方へ吹き飛び、ゴミ袋の山に突っ込んだ。
二度目のダウン。
今度は立ち上がれない。激痛で視界が明滅し、うずくまることしかできなかった。
「ハハハ! なんだこいつら、マンガの読みすぎか?」
「いきなり出てきて秒殺とか、ギャグだろ」
東岸の男たちがゲラゲラと笑う声が遠くに聞こえる。
俺は霞む目で、健太を見た。
彼は立ち尽くしていた。
その足は、ガクガクと小刻みに震えている。
恐怖か、それとも武者震いか。
膝が笑って、今にも崩れ落ちそうだ。
だが、次の瞬間。
健太は奇妙な行動に出た。
バンッ!!
乾いた音が響いた。
健太が自分の太腿を、全力で叩いたのだ。
「……動けよ」
バチンッ!!
もう一度。さらに強く。
「……ポンコツが。動けって言ってんだろ」
それはまるで、調子の悪い機械を叩いて直すような、無機質で冷たい動作だった。
彼の目から「普通の高校生」の光が消えていく。
恐怖で震えていた足が、叩かれるたびに、地面に根を張るように静止していく。
暴力に耐え、理不尽な痛みを受け流すために身につけた、彼のスイッチが入ったのだ。
「……おい、テメェら」
健太がゆっくりと顔を上げた。
その表情は、いつものお調子者のそれではない。
能面のように感情が抜け落ち、ただ目の前の敵を排除するためだけに調整された、冷徹な兵士の顔だった。
「湊に触るな。……あの子にもだ」
彼は両手をだらりと下げ、重心を低くした。
ボクシングのような綺麗な構えではない。
喧嘩慣れした、あるいは殴られることを得意とした人間特有の、急所を隠す実戦的な構え。
「あぁ? なんだお前、まだやんのか?」
リーダー格の男がニヤニヤしながら近づいてくる。
「いいぜ。お前も仲良く寝かせてや……」
男が拳を振り上げた瞬間。
健太の体が一歩、深く踏み込んだ。
「――っし、やるぞ」
路地裏の空気が、一瞬で張り詰めた。
俺が倒れ、少女が震える中、もはや普通の高校生ではなくなった健太の、孤独な戦いが始まろうとしていた。




